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死を諦めた占い師は、皇子に目をつけられた  作者: ここば


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第五十七話:庭での忠告

出立まで、あと三日となった。

旅の荷は、翠華と沈家の女官たちの手で、着々と積み上げられていく。

異国の式典に立つための装束、道中の着替え、薬、干した果物。雨鈴が口を挟む隙もなかった。


「雨鈴様、こちらの襦裙は、関を越えてからお召しになるものです。道中は、こちらの動きやすい方を。」


「はぁい。」


「お返事は、短く。」


「はい。」

 

明琳と瑞葉からは、それぞれ文が届いた。

明琳のものは涙の跡でところどころ滲んでいて、瑞葉のものには、道中の無事を祈るという小さな守り袋が添えられていた。

友の字を眺めていると、少しだけ、胸が軽くなる。

――大丈夫。ちゃんと帰ってくる。

 

その日の午後、雨鈴は久しぶりに庭へ出た。

息抜きのつもりだった。木立の下のいつもの場所に、その人がいるかもしれないとは、少しも思っていなかった。

――いた。

口元を布で覆った男が、当たり前のような顔で、石に腰を下ろしている。

雨鈴の足が、止まった。


「やあ。」

 

布の上の目が、いつも通りに笑った。


「久しぶりだな、雨鈴。」

 

喉が、干上がった。

この人は、第二皇子・景明。夫の兄。

十人の側室を持ち、皇帝候補の筆頭で、景辰を一言で完封した人。

医者を寄越すと言って、夫を脅した人。

――それが、目の前で、いつもの声で「やあ」と言っている。


「……ご機嫌、麗しゅう存じます。」

 

教わった通りの礼を、教わった通りの角度でした。膝が、少し震えた。


「よしてくれ。」

 

景明は、ひらりと手を振った。


「その挨拶は、第二皇子にするものだ。……ここにいるのは、志遠だよ。」


「……そんな。」


「そういう約束でね。弟には、話を通してある。」

 

通してある、ではない。呑ませたのだ。

医者の話と引き換えに。

 

雨鈴は、俯いたまま、拳を握った。

怒っている。腹が立っている。

それなのに、この人には何一つ言い返せない。

身分が違いすぎる。

城の作法を一月かけて叩き込まれた今、それが痛いほど分かってしまう。


「怒っているな。」


「……いいえ。」


「顔に出ている。」


「出ていません。」


「出ているとも。……市で客の顔色を読んでいた娘が、自分の顔は隠せんとは、面白いな。」

 

――かちん、と来た。

来た瞬間、口が動いていた。


「じゃあ、言います。」


「うん。」


「ひどいと思います。」

 

顔を上げた。布の上の目が、少しだけ見開かれた。


「私を騙していたことじゃありません。名乗れなかっただけだって、分かってます。……でも、あなたは景辰を脅した。私を口実にして。それは、ひどいです。」

 

言ってしまってから、血の気が引いた。

皇子相手に、なんてことを。

けれど景明は、怒らなかった。

しばらく黙って、それから、ほう、と息を吐いた。


「……やはり、面白いな、君は。」


「面白くないです。」


「弟の顔を立てるために、俺の機嫌を取るのが正しい場面だぞ。分かっているか?」


「分かってます。でも、嘘は下手なので。」


言ってから、あの茶会の東屋を思い出した。

この人の前で、言わなくていいことを、べらべらと。

……本当に、下手だ。


「ふむ。……ならば、一つだけ、本当のことを言っておこうか。」


景明は、石から腰を上げた。


「あの条件は、確かに脅しだ。取り消す気はない。……だが、俺は君に、何かを企んでいるわけではない。」


「どういう意味ですか?」


「そのままの意味だ。」


布の上の目が、細くなる。


「俺は、君と話がしたい。……それだけのために、弟にあれだけの無理を通した。信じないだろうがね。」

 

信じられるわけがない。

信じられるわけがないのに、その声には、なぜだか嘘の匂いがしなかった。

それが、いちばん、たちが悪い。


「……ひとつ、聞いてもいいですか?」


「どうぞ。」


「なぜ、顔を隠すんですか?」


庭に、風が渡った。


「前に聞いた時、約束だって言いました。……あなたが皇子様だって知った今でも、それは変わらないんですか?」


「変わらんな」


「誰との、何の約束なんですか?」


「昔の話だ。」


いつもの、はぐらかし。

けれど今日は、その声が、ほんの少しだけ短かった気がした。

景明は石から離れ、行きかけて――ふと、足を止めた。


「そういえば、お前のところも忙しないな。……先ほど廊下ですれ違ったが、君づきの女官まで、荷を抱えて走り回っていたぞ。」


「ああ……はい。もう三日後なので。」


「三日後?」


「はい。皆で発つ支度を。」


「――皆?」


景明の足が、止まった。


「弟の供の支度に、君の部屋の者まで駆り出されているという話か?」


「え?いえ、私の荷ですけど。」


布の上の目から、笑みが消えた。


「――君も行くのか?」


「え……はい。」


「誰が決めた?」


声が、変わっていた。低くて、静かで、庭の温度ごと下げるような声だった。

雨鈴は思わず半歩下がった。


「あの、景辰が……私を一人、都に残しておけないからと。」


「馬鹿な。」


吐き捨てるようだった。


「あれは物見遊山ではない。国境の向こうだぞ。……やめておけ。都で待っていろ。」


「え、でも」


「景辰には俺から言う。側室が同道せぬくらいで、格が落ちるものか。」


「行きます。」


雨鈴は、はっきりと言った。


「私が残ったら、景辰は道中ずっと、都のことを気にします。……それに、隣にいるって決めたので。」

 

庭が、静かになった。

景明は、しばらく雨鈴を見ていた。

何か言いかけて、やめて、また何か言いかけて――結局、深く、長い息を吐いた。


「……頑固なところは、変わらんな。」


「よく言われます。」


「ならば、覚えておけ。」

 

布の上の目が、まっすぐにこちらを向いた。


「あの国は、笑って迎える顔の裏で何を考えているか分からん相手だ。宴の席で出されたものは、迂闊に口にするな。人のいない場所へ、一人で行くな。国境を越えたら、誰の親切も疑え。……そして、景辰の傍を離れるな。」

 

雨鈴は、目を丸くした。

脅した相手の身を、なぜここまで案じる。

しかもその中身は、驚くほど具体的で、実際に役に立ちそうな忠告だった。


「……なんで、そんなこと?」


「さて、何でだろうな。」

 

いつもの答えだった。

いつもの答えのはずなのに、今日はなぜか、声に力がなかった。


そして男は、軽く手を上げて、木立の向こうへ消えていった。

残された雨鈴は、しばらくその場から動けなかった。

――優しいのも、あんなことを言うのも、両方とも本当。

そんなことが、あり得るのだろうか。

 

三日後の早朝。

門前で最後の荷を検めていた一行の前に、思いがけない客が現れた。

物静かな男が、深く礼をする。


――柏峰。毒の一件で、第二皇子から貸し出された、あの調べ役だった。

その斜め後ろに、もう一人。頭ひとつ分背の高い、肩幅の広い男が控えている。

腰の得物の据わり方だけで、蒼真の目つきが変わったのが分かった。


「我が主より、言伝にございます。『大役をこちらの都合で代わってもらったのだ。せめて、使える人手を出そう』と。……調べには私を、腕の方はこの巌牙(がんが)を。道中、末席にお加えください。」

 

景辰の顔から、表情が消えた。

断れば、兄の厚意を無下にすることになる。

受ければ、道中ずっと、兄の目を連れて歩くことになる。


「……ありがたい。よろしく頼む。」


言うより他に、なかった。

柏峰が下がると、蒼楽が横で低く呟いた。


「見張りですね。しかも、目と、腕と、一つずつ。」


「言うな。」


こうして馬車が三台、護衛が十数騎。

景辰、雨鈴、翠華、蒼真、蒼楽、高峻――そして、兄の目と腕が一つずつ。

門を出ると、朝靄の向こうに、まだ眠ったような都の甍が広がっていた。


「……緊張しているか?」

 

向かいに座った景辰が、そう言った。


「……ちょっとだけ。」


「今日は素直だな。」

 

揺れる馬車の中で、雨鈴は膝の上の手を握った。

高峻の絵図で見つけた、あの地名。

あれから何度も、頭の隅にちらついている。


景辰には、まだ話していない。

話せば、あの人はきっと道筋を変えるだろう。

村を避けて、遠回りをして。私のために。

それは、違う気がした。

ただ通り過ぎるだけだ。

街道から外れた、小さな村。

降りる用も、寄る理由もない。

……そう自分に言い聞かせても、指先の冷たさは、なかなか取れなかった。


「そういえば」


向かいの景辰が、絵図を広げながら言った。


「四日目の晩は、桃里(とうり)という宿場に泊まる。夜市が出る町だそうだ。」


「夜市!」


雨鈴の声が、跳ね上がった。

屋台。人いきれ。油と甘い匂い。呼び込みの声。

――それは、この一月ですっかり遠くなった、懐かしい世界の音だった。


「行ってもいい!?」


「……その顔をされて、駄目と言えるか。」

 

景辰は絵図に目を落としたまま、少しだけ、口の端を上げた。


日が傾く頃、一行は最初の宿場に着いた。

街道沿いの、小さな村だった。

宿は一軒きり。それも、皇子の一行を迎えるには、明らかに手狭だった。

 

高峻と宿の主が、板場の隅で何やら額を突き合わせている。

やがて戻ってきた高峻の顔は、微妙に強張っていた。


「殿下。……お部屋の割り振りですが」


「言え。」


「二階の三部屋しか、警護の目が届きませぬ。護衛と供の者で二部屋を使いますと、残りは一部屋。……つまり」


高峻は、そこで一度、言葉を切った。


「殿下と雨鈴様には、同じお部屋にお入りいただくのが、最も安全かと存じます。」

 

馬車を降りたばかりの雨鈴の手から、荷が滑り落ちかけた。

――同じ、部屋。


「……妥当だな」


景辰は、眉ひとつ動かさずに頷いた。

この人は、なんでそんなに平然としているのか。

夫婦なのだから当たり前だ、とでも言うのだろうか。

当たり前ではない。少なくとも、この宮の外では。

旅の一日目の夜は、そんなふうにして、始まった。


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