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死を諦めた占い師は、皇子に目をつけられた  作者: ここば


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第五十六話:発つ支度

部屋に戻ると、雨鈴は起き上がっていた。

牀の上で膝を抱え、掛布を巻きつけたまま、ぼんやりと灯りを見ている。

目蓋はまだ腫れていたが、涙は止まっていた。


「……もう、平気か?」


「うん。……さっきは、ごめんなさい。あんな、取り乱して。」


「気にするな。」


景辰は牀の縁に腰を下ろした。何から話したものか、少し考えて――結局、遠回りはやめた。


「来月、隣国へ発つ。」


「……え?」


「先方の王の、即位十年の式典だ。本来は兄上が行かれる手筈だったが、俺が代わりに立つことになった。」

 

雨鈴は、瞬きをした。それから、掛布を握る手に力がこもった。


「……隣国って。この前の戦の、相手の国よね?」


「よく知っているな。」


「市の噂で、さんざん聞いたもの。……ねえ、なんで景辰が行くの?」


「兄上に頼まれた。」


「頼まれて、はい行きます、なんて言う人じゃないでしょう。あなた。」

 

景辰は、答えなかった。

そのわずかな間で、雨鈴は察してしまったらしい。

掛布の上の指が、白くなった。


「……私の、せい?」


「違う。」


「嘘。あの人と食事して帰ってきて、急に隣国だなんて。……取引したんでしょう。何を言われたの?」


「知る必要はない。」


「あります。」

 

声が、はっきりと硬くなった。腫れた目のまま、雨鈴はまっすぐにこちらを見ていた。


「もう私は守られるだけの客人じゃないの。夫婦でしょ?教えて。……私に関わることなら、なおさら。」

 

景辰は、しばらく黙っていた。

言えば、この娘は傷つく。

言わなければ、この娘の決意を踏みにじる。

どちらも取りたくなかったが、選ばないことだけは、もう許されない気がした。


「……医者を、遣わそうかと言われた。」


「お医者様?」


「輿入れからひと月、毎夜渡っていると聞く、……女の身体を診るのに慣れた者を寄越そう、と。」

 

言葉の意味が、届くまでに、少し間があった。

雨鈴の顔から、すうっと血の気が引いていくのが見えた。

診立てが下れば何が記録に残るのか、この一月で城の作法を叩き込まれた娘には、もう分かってしまう。


「…………そう。」

 

声は、小さかった。

けれど、今度は泣かなかった。

膝を抱えたまま、雨鈴はしばらく灯りを見つめて、それから、深く息を吐いた。


「雨鈴。」


「私も行くのよね?」


「ああ。……都に、お前一人は残せん。」

 

それについては、雨鈴も何も言わなかった。この宮の外がどれほど危ないか、身をもって知っている。


「……ごめんなさい。私が余計なことを言ったから。」


「その謝罪は、受け取らんと言ったはずだ。」


「でも」


「あの人は、初めからそのつもりだった。」

 

景辰は、はっきりと言った。


「お前が口を滑らせずとも、別の口実を探し出しただけのことだ。あの人は、そういう手を、いくらでも持っている。」

 

もう一つ、伝えねばならないことがあった。

言いたくなかった。

だが、隠しておけば、いずれあの娘が庭で不意打ちを食らうことになる。


「……もう一つ、条件を呑まされた。」


「まだあるの?」


「兄上は、これからも『志遠』として、お前に会うそうだ。」


「……え?」


「第二皇子として会えば人目につく、志遠ならば宮の者も咎めん、と。……止められなかった。」

 

雨鈴は、返事をしなかった。

膝の上で、指をゆっくりと組み替えている。

何を考えているのか、景辰には読めなかった。


「……ねえ、景辰。」


「何だ?」


「……分からないの。」


ぽつりと言った。


「あの人が優しかったのは、全部嘘だったのかな?それとも、優しいのも、あんなことを言うのも、両方とも本当なのかな?」

 

景辰は、答えられなかった。

あの兄について、幼い頃から一度も、答えを出せた例がない。


「……分からん。」


「そっか。景辰にも分からないんだ。」


少しだけ、雨鈴は笑った。泣いた後の、へたくそな笑い方だった。

「じゃあ、仕方ないね。」


翌日から、宮は慌ただしくなった。


「隣国ですって!?」


高峻から日程を聞かされた蒼楽が、珍しく大きな声を出した。


「殿下、正気ですか。あそこは和議を結んだといっても、国境じゃ今も睨み合ってるんですよ。皇子が乗り込むなんて、格好の的じゃないですか!」


「分かっている。」


「分かってて行くんですか?」


「行かねばならん。」

 

それ以上、景辰は説明しなかった。

蒼楽もまた、それ以上は聞かなかった。

長い付き合いというのは、そういうものらしい。


「……分かりましたよ。ならこっちは、連れて行く人選を詰めるだけです。蒼真は当然として、あとは腕の立つのを何人か。」


「翠華も参ります。」


脇から、静かな声が挟まった。


「雨鈴様のお側を、離れるつもりはございません。」


「翠華さん、敵国ですよ?」


「存じております。」


一歩も引かない構えに、蒼楽は肩をすくめた。


その日の午後、高峻が道中の絵図を広げた。

都を出て西へ。

三つの街道を継いで、国境の関を越える。

行程は、片道でおよそ十日。


「宿場は、この六つを使います。ここで馬を替え、この宿で二泊。関の手前で、先方の迎えと合流いたします。」


景辰と蒼真が、地名を追いながら頷いている。翠華も熱心に覗き込んでいた。

――雨鈴だけが、動かなかった。


絵図の、二つ目の街道の脇。街道から少し外れた場所に、小さく記された地名がある。

白楊村。

喉の奥が、ひやりとした。

忘れたつもりだった。

忘れたつもりで、地図の上に見つけた瞬間、指先が冷えるくらいには、覚えていた。


「雨鈴様?」


翠華の声で、我に返った。


「どうかなさいましたか。ご気分でも?」


「……ううん。」


雨鈴は、絵図から目を離した。


「なんでもない。」

 

嘘だった。この一月で身につけた作法が、ようやくここで生かされた。


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