第五十五話:兄の食卓
通されたのは、思いのほか小さな部屋だった。
卓は一つ。膳は二つ。給仕の者も、警護の姿もない。人払いをしてある、ということだ。
「よく来たな、景辰。」
上座で、景明が杯を上げた。
布はない。素顔のままだ。柔和な目元に、穏やかな笑み。幼い頃から見慣れた、この兄の顔。
――あれの前でだけ布を巻いていたのは、こちらの宮の者に気づかれぬためだろう。
翠華も蒼楽も、この顔は知っている。
周到なことだ、と景辰は奥歯を噛んだ。
「掛けろ。今宵は、兄弟だけの席だ。」
景辰は無言で腰を下ろした。膳の品は、どれも見事なものだった。
手をつける気には、まるでならなかった。
「雨鈴殿は、いかがだ。目の前で倒れられたから肝を冷やしたぞ。」
「……お陰様で、休んでおります。」
「それは良かった。慣れぬ場で、気疲れもあったのだろう。……こちらの茶会でのことだ、詫びねばならん。」
言葉は、どこまでも滑らかだった。滑らかすぎて、指が滑る隙もない。
「兄上。」
景辰は、杯に手も触れずに切り出した。
「一つ、伺いたい。」
「申せ。」
「なぜ、志遠などと名乗られたのです?」
部屋の空気が、ほんのわずか、揺れた気がした。
「あれの前に現れ、名を偽り、贈り物をし、宴から連れ出した。……何のために、そこまでなさる?」
「偽った覚えはないな。」
景明は、事もなげに答えた。
「名を訊かれたので、志遠と答えた。皇族がそう簡単には名乗れんだろ。……身分を騙った覚えもない。あれは俺を、お前の古い知り合いの、どこぞの家の者とでも思っていたのだろうよ。」
「詭弁です。」
「詭弁か?俺は、こう言ったはずだ。――景辰とは、古い付き合いだ、とな。」
景辰は、言葉に詰まった。
嘘ではない。一つも、嘘ではない。兄弟なのだから、これ以上に古い付き合いもない。
「……兄上。あれは、私の側室です。」
「知っている。」
「今後は、お控えいただきたい。」
「それは、断る。」
あまりに即座で、あまりに平然としていた。
「な……」
「面白かったのだ。」
景明は、杯を置いた。
「城の者は、俺の前では皆、同じ顔をする。畏まって、機嫌を伺って、退屈な言葉しか喋らん。……だがあの娘は、俺を『志遠さん』と呼んで、菓子の話をした。天秤棒の担ぎ方が違うと、俺に講釈まで垂れたぞ。」
その目が、懐かしむように細くなる。
「あれと話している間だけは、退屈しなかった。……手放す気は、ない。」
卓の下で、景辰の拳が鳴った。
物を言うような口ぶりだった。人ひとりを、退屈しのぎの品のように。
「――兄上。」
「そう睨むな。それより、見ろ。」
景明は、腰に挟んでいた布を抜き、何気ない仕草で指先を拭った。
白い、上等な布だった。卓に置かれたそれの、端の方に。
拙い針目で、二文字が縫い取られていた。
――志遠、と。
景辰の呼吸が、止まった。
あの縫い目に、覚えがある。
稽古の合間、翠華に苦笑されながら、あれが飽きもせず針を刺していた、あの拙い手つき。
「……それは」
「貰い物だ。」
景明は、布を軽く畳んだ。
「大切にしている。」
言うべき言葉は、いくらでもあった。
返せ、とも、捨てろ、とも。
だがそのどれもが、口にした瞬間に、こちらの負けになると分かっていた。
あの布は、雨鈴が自分の意志で贈ったものだ。夫が取り返せる筋合いのものではない。
――この人は、それを分かっていて、卓に置いた。
「時に、景辰。」
景明が、話題を変えた。
「雨鈴殿は、輿入れから、そろそろひと月になるか。」
「……それが、何か?」
「聞けば、お前は毎夜、あれの元へ渡っているそうではないか。……ならば、そろそろご懐妊の兆しでも、あるのではないか?」
喉の奥が、冷たくなった。
「兄上には、関わりのないことです。」
「そうか。……いや、案じているのだ。」
声は、驚くほど優しかった。
「市井の出では、身体のこと一つ、誰に相談すればよいかも分かるまい。何なら、腕の良い医者を遣わそうか。女の身体を診るのに、慣れた者を。」
――医者。
景辰の頭の中で、その一言が、正確に形を結んだ。
女の身体を診る医者。
輿入れした側室に遣わされる医者が、何を確かめるものか。
この城で育った者なら、誰でも知っている。
その診立てが下れば、この婚姻に夫婦の実がないことが、記録として残る。
そして次に来る問いは、決まっている。
――ならば、なぜ、市井の娘を側室にした?
「……兄上。」
声が、掠れた。
「それは、脅しですか?」
「心外だな。」
景明は、心底心外そうな顔をした。
「弟の家のことを案じて、何が悪い。……断るなら、それでもよい。この話は、ここで終いだ。」
嘘だ、と景辰は思った。
この人は、必要とあらば本当に医者を遣わす。
そして、そのすべてを「善意」の顔でやってのける。
誰にも咎められぬ形で、こちらの喉元に刃を当てておいて。
「……何が、望みです。」
「話が早くて助かる。」
景明は、満足そうに頷いた。
「来月、隣国で式典がある。先方の王の、即位十年を祝う会だ。本来は、俺が発つ手筈になっていた。」
「……隣国。」
景辰の眉が、寄った。
先の戦から、まだ十年と経っていない。
国境の睨み合いは今も続き、和議はあれども、友好とは程遠い相手だ。
「代わりに、行ってくれぬか?」
「……なぜ、兄上が行かれぬのです?」
「気が進まぬ。では、不足か。」
「不足です。」
「そうか。」
景明は、それきり理由を言わなかった。
言わないことで、そこに何かがあると教えるのが、この人の癖だった。
「行ってくれるなら、今日聞いたことは、俺の頭から抜け落ちる。医者の話も、二度とせん。……悪い取引ではあるまい。」
部屋が、静かになった。
断れば、医者が来る。
来れば、雨鈴の身体が調べられ、婚姻の中身が記録に残り、そこから「なぜ」の問いが始まる。
あの娘の目の秘密まで、あと何手もかからない。
受ければ、敵国へ行くことになる。何が待っているかも分からぬ土地へ。
――どちらも、この人の掌の上だ。
「……承知しました。」
景辰は、そう言った。言うしか、なかった。
「よい返事だ。――ああ、一つ、条件を付け加えておこう。」
「……条件?」
「今後も、俺が『志遠』として、あれと会うことを許せ。」
景辰は、思わず腰を浮かせかけた。
「兄上!」
「考えてもみろ。第二皇子として会いに行って、何になる。義兄が弟の側室と人目を忍んで会っていた――そんな噂が立って、困るのはどちらだ?」
言い草は、まるでこちらを気遣っているかのようだった。
「その点、志遠なら都合がよい。お前の宮の者は皆、あれをお前の古い付き合いの男だと思い込んでいる。庭で立ち話をしていたところで、誰も咎めん。……なに、取って食おうというのではない。茶の一杯も飲み、他愛のない話をする。それだけのことだ。」
景明は、平然と杯を干した。
「……お前も、そう身構えるな。俺があれに会うのを止めたところで、俺があれを気に入っている事実は、何一つ変わらん。」
――止めても変わらない。
この人は今、そう言った。つまりこれは、譲歩ではない。ただの、通告だ。
景辰は、拳を握りしめたまま、目を伏せた。
「……承知、しました。」
その一言を絞り出すのに、生涯で一番長い時間がかかった気がした。
礼をして、部屋を出る。
廊下を歩きながら、景辰は既に、次のことを考えていた。
――雨鈴を、どうする。
都に残していけば、この宮の主と、蓮池の向こうと、その両方の目の中に、あれ一人を置くことになる。
翠華と蒼真を付けても、守り切れる保証はない。
毒の一件も、仮面の宴も、こちらが傍にいてなお起きたのだ。
連れて行けば、敵国の土を踏ませることになる。危険だ。だが、こちらの目の届くところにいる。
(……連れて行く)
答えは、廊下を曲がる前に出ていた。
戸が閉まり、足音が遠ざかると、部屋には景明だけが残った。
杯に、手酌で酒を注ぐ。
飲まずに、しばらく眺めた。
それから、卓の上の布を取り上げた。
白い布。拙い針目。志遠、と縫い取られた、二文字。
名を訊かれて、咄嗟に口をついて出た偽りの名だった。
あの日、この二文字を差し出されて、指が動かなくなったことを、今でも覚えている。
――名前が入ってれば、落としても戻ってくるよ。
あんな顔で、そんなことを言うものだから。
「……戻ってきたのは、こっちだったな。」
呟きは、誰にも聞かれなかった。
景明は布を丁寧に畳み、また、腰へ挟んだ。
その口元がどんな形をしていたのかを、見ている者は、誰もいなかった。




