第五十四話:風が布を
「――しかし、ここは人が多いな。」
志遠は、庭の賑わいを一瞥して、軽く肩をすくめた。
「俺はどうも、人目の多いところが苦手でね。少し、移ろうか。」
「え……あ、うん。」
自然な口ぶりに、雨鈴はつい頷いていた。
歩きながらも、志遠の話は途切れなかった。
市の団子屋がとうとう店を広げたという話。
西の国から入ってきた珍しい果物の話。
相槌を打っているうちに、二人は花の生垣を回り、酒の入った一団の高笑いの裏を抜け、運ばれていく膳の列とすれ違い、また別の卓の陰を通っていた。
人の声が、いつのまにか遠い。
気がつけば、庭の外れの、古びた東屋の前だった。
花の匂いと、風の音しか、しない。
「……あれ?」
雨鈴は、きょとんと振り返った。
賑わいは、木立と生垣の向こうだ。
ここからでは、誰の姿も見えない。
「静かなところ、あったんだね。よく知ってるのね。」
「まあ、それなりに長く出入りしているのでね。」
布の上の目が、やわらかく笑っている。
――その間、翠華と蒼真の目が、いつ、どこで自分から切れたのか。
雨鈴は、まったく気づいていなかった。
東屋の柱に背を預けて、志遠は雨鈴を眺めた。
「それにしても、こうして会えるとはな。……もう会えないからと、ずいぶんしんみりした挨拶を頂戴した覚えがあるんだが。」
「!そ、それは……!」
「なんだったかな。『あなたと話すの、私、好きだったな』……だったか。」
「覚えてなくていいの、そういうところは!」
志遠は肩を揺らして笑った。悔しいことに、その笑い方が、いつも通りだった。
「で、どうだ。側室の暮らしは?」
「……慌ただしいわ。挨拶回りだの、作法だの。」
「ふむ。」
布の上の目が、すいと細くなった。
「聞いたよ。殿下が、毎夜お渡りだそうだね。」
「な……!」
「たいそうな、おあついことで。……ああ、もしや今も眠いのかな?夜が長いと、昼が辛かろう。」
――かっ、と顔が熱くなった。
こういう時、後宮の姫君ならば扇で口元を隠して微笑むのだろう。
しかし雨鈴は市育ちで、しかも、この手の話にはこの上なく耐性がなかった。
「そ、そんなことないわよ!」
「そんなこと、とは?」
「だ、だから、そういうんじゃなくて!昨日だって、話してたら私、先に眠っちゃったし――」
言い終わってから。
自分が今、何を言ったのか、遅れて理解した。
――話していたら、眠ってしまった。
毎夜通う夫と、話をしていて、眠ってしまった。
(……あ)
志遠の目が、丸くなっていた。
いつも笑っている、あの読めない目が、はっきりと、驚いていた。
「……ほう?」
「ち、ちが……今のは、そういう意味じゃなくて。」
「どういう意味かな?」
「その、あの、疲れてたから、たまたま……たまたま、一度だけ。」
「一度だけ。」
「そ、そう。一度だけ。ほかは、ちゃんと、その、ちゃんとしてるから!」
言うほどに、嘘の匂いが濃くなっていく。
自分でも分かるのに、止まらない。
占い師をしていた頃、こんな下手な言い逃れをする客を、山ほど見てきたはずなのに。
志遠は、何も言わなかった。
ただ、静かにこちらを見ていた。
その沈黙が、何もかも見透かしていた。
風が、東屋の軒を鳴らした。
「――雨鈴様!」
息を切らした声が、静けさを破った。
振り向くと、蒼真が駆けてくる。
その後ろには、袖を押さえた翠華。二人とも、顔色が悪い。
「人気のないところへ行かれる時は、せめて目線をください!危険です!」
「ご、ごめん……」
「琥珀様も、雨鈴様をお探しでいらしたので、お連れしました。」
言葉の通り、少し遅れて、ふっくらとした人影が小走りにやってきた。
「まあ、こちらにいらしたのですね。急に姿が見えないから、心配して……」
その時だった。
ざあっ、と。
庭の木々を鳴らして、強い風が吹き抜けた。
砂と花弁が舞い上がり、雨鈴は思わず両手で顔を覆い、目をつむった。
衣が音を立ててはためく。風は数拍だけ荒れて、すぐに凪いだ。
目を開ける。頬に張り付いた髪を払う。
――と。
「あら?」
琥珀の、間の抜けたような声がした。
「景明様も、いらしてたのですか?」
……え?
雨鈴は、瞬きをした。
琥珀が見ているのは、東屋の柱の前。
そこには、たった今まで話していた男が、風で乱れた布を悠然と結び直しながら立っている。
――けいめい、さま?
志遠の指が、布の端を整え終えた。
「ああ。景辰の側室と、話してみたくてね。」
いつもと変わらない、あの声だった。
「こっそり紛れ込ませてもらったよ。琥珀、内緒にしておいてくれ。」
「もう、景明様ったら。仰ってくだされば、上座をご用意しましたのに。」
「それでは面白くないだろう。」
二人は、当たり前のように言葉を交わしている。
当たり前のように。
(……え?)
雨鈴の頭の中で、音が遠くなった。
志遠が。第二皇子、景明様。
――嘘でしょう。
城の廊下で会った男。景辰とは古い付き合いだと名乗った男。
贈り物を山と積み、隠れ家で夕餉をふるまい、絵本を貸してくれた男。
仮面の宴から手を引いて連れ出してくれた、あの――。
(第二皇子って、あの、側室が十人いて、皇帝候補の筆頭で、景辰が抗議に行って、たった一言で完封された、あの……!)
いや、待って。それより。
それより、まずいことがある。
私は今、たった今、この人に。
殿下と一夜を共にしていないことを。
しゃべった。
(――終わった。)
視界の縁が、すっと白くなった。花の匂いが遠のいて、地面が傾いて、誰かが名を呼ぶ声がして。
そこで、雨鈴の記憶は途切れた。
次に目を開けた時、見えたのは、見慣れた天井の梁だった。
牀の上に寝かされている。
掛布の重み。焚かれた薬の匂い。手足が、鉛のように重い。
「――お目覚めになられました!」
翠華の声が、いつもの落ち着きをかなぐり捨てて響いた。衣擦れの音が近づいて、影が牀の縁に落ちる。
「雨鈴。……分かるか?」
景辰だった。眉間に深い皺を寄せ、こちらを覗き込んでいる。
「うん……大丈夫。ちょっと、目が回っただけ。」
言いながら、記憶が戻ってきた。
東屋。風。布。琥珀の声。景明様、と。そして、その直前に自分がしゃべったこと。
全部が、鮮明に。
「……あ。」
喉の奥から、変な音が出た。
「雨鈴?」
「ど、どうしよう……景辰、どうしよう……!」
気づけば、目から水が溢れていた。溢れ出したら、止まらなかった。
掛布を掴んで、雨鈴は嗚咽した。
部屋の空気が、目に見えて動転した。
「な……」
景辰が、はっきりと狼狽していた。
処刑場でも顔色を変えなかった男が、女の涙一つで完全に足元を失っている。
「お、おい、待て。茶会のことか?あれは気にするな。先方にも体調不良と伝えて――」
「そうじゃない……!そうじゃ、ないの……!」
いっそう激しく泣き出した雨鈴に、景辰は言葉を失った。
それから短く、目配せをした。
「……皆、下がれ。」
「殿下。」
「いいから、下がれ。」
蒼楽が、蒼真が、翠華が、静かに退いていく。
戸が閉まると、部屋には二人だけになった。
「……で。何があった?」
しゃくり上げながら、雨鈴は全部話した。
人目を避けて東屋へ移ったこと。
志遠にからかわれたこと。
うっかり口を滑らせたこと。
風が布を舞わせたこと。そして、琥珀が呼んだ名。
景辰の顔から、みるみる色が引いていった。
「……志遠が、兄上だと?」
「ごめんなさい……ごめんなさい、私が、余計なことを言ったから……」
景辰は答えなかった。答えられなかった。
志遠。いつも都合よくあの庭にいた男。
花を贈り、隠れ家に招き、仮面の宴からこの娘を連れ出した男。――あれが、兄。
つまり兄上は、初めから雨鈴に近づいていた。
この宮に来た、その最初から。
そして今、その兄に知られた。
この婚姻に、まだ夫婦の実がないことを。
(……まずい。)
名分だけの婚姻だと知れれば、次に来る問いは一つに決まっている。
――ならば、なぜ側室にした?
守るためだ。ではなぜ、市井の娘を、そこまでして守る?この娘に、何があるのか。
兄上は、必ず、そこへ行き着く。あの人ならば、必ず。
「ごめんなさい……!私が、私のせいで、あなたの面目まで……!」
「……落ち着け。」
景辰は牀の縁に腰を下ろし、雨鈴の背に手を置いた。
「大丈夫だ。」
ぎこちない手つきで、背を撫でる。
こんなふうに人をあやしたことなど、生まれて一度もない男の手つきだった。
「お前のせいではない。……あの人は、初めからそういう人だ。お前が漏らさずとも、いずれ知れた。」
「でも……」
「大丈夫だ。」
繰り返しても、泣き声は止まらなかった。
景辰は困り果てた顔で、それでも手を止めなかった。
その時、戸の向こうから声がした。
「――殿下。失礼いたします。」
翠華だった。声が、硬い。
「景明殿下より、お使いの方が参っております。」
景辰の手が、止まった。
この状態の雨鈴を、兄の使いに見せるわけにはいかない。
泣き濡れた顔一つで、あちらは十のことを察するだろう。
「……俺が出る。」
景辰は立ち上がり、掛布を雨鈴の肩まで引き上げた。
「休んでいろ。何も心配するな。」
そう言い置いて、戸の外へ出る。
控えていた使いの者が、深く礼をした。そして、極めて丁寧に、こう述べた。
「――我が主より。今宵、お食事をご一緒に願いたい、とのことでございます。」




