第五十三話:断れぬ招き
輿入れから、一か月が過ぎた。
朝の請安にも、末席の作法にも、少しずつ体が慣れてきた。
挨拶の順を間違えなくなり、誰の扇の音がどの意味かも、おぼろげに分かるようになった。
そしてもう一つ、慣れてしまったことがある。
「――失礼いたします。」
夜。侍女たちが、寝所の支度に入ってくる。
灯りを整え、香を焚き、寝具を改める。
今夜も、翠華の指図のもとで手が動いていた。
雨鈴は鏡の前で髪を梳かれながら、そのざわめきを、何とはなしに聞いていた。
「……やっぱり、輿入れしたてでいらっしゃるもの。殿下、毎晩お渡りですものねえ。」
少し離れた場所で、若い侍女たちが手を止めずに囁き合っている。
「市井からわざわざ連れてこられたお方ですもの。ご寵愛は、当然でしょう。」
「羨ましいこと。うちの殿下、あんなお顔で、ああいうところは情が深いのねえ。」
(……あの)
鏡の中で、雨鈴の口元が引きつった。
確かに景辰は、毎晩来る。
来るのだが。来て、卓の向かいに座って、政務の愚痴を言い、翠華の淹れた茶を飲み、他愛のない話をして、帰るのだ。
それだけ。ただの一度も、それ以上のことは何もない。
――でも、それを言うわけにもいかない。
側室が「毎晩来るけど何もしない」などと知られれば、それこそ「寵愛されていない」という別の噂が立つ。
景辰の面目にも関わる。
だから雨鈴は、聞こえないふりをするしかなかった。
「そういえば」
別の侍女が、声をひそめた。ひそめたつもりで、ちっともひそまっていない。
「新参でなくても、第一皇子・景恒殿下は、毎晩、紫蘭様のところへお渡りですって。」
「まあ!あんな事件がおありになったのに?」
「だからこそ、でしょう。ご正妃様がいらっしゃるのに、ずうっと紫蘭様お一人ですもの。……不滅の愛だわあ。」
「きゃあ。」
きゃあ、じゃないわよ、と雨鈴は内心で突っ込んだ。
突っ込みながら、少しだけ、胸が痛む。
その「不滅の愛」の隣で、静かに微笑んでいる正妃の顔を、雨鈴は知っている。
「あら、でも、もっと驚くことがあるのよ。」
侍女の声が、いよいよ弾んだ。
「第二皇子・景明殿下がね、この一か月、毎日、側室様方のところへお泊まりだそうよ。」
「ええっ!?」
思わず、といった声が上がった。
「だって景明殿下は、あまり側室様方のところへはいらっしゃらない方でしょう?だから、あのお宮のご婚姻は、みんなお家との繋がりのためだけの、政のためのものだって。」
「それが、この一か月は毎晩ですって。しかも、お相手を変えて。」
「まあ……。ご兄弟のご様子に、触発でもされたのかしら。」
「案外、ご正妃をお決めになる気になられたのかも。」
一か月。
その数に、雨鈴は特に何も思わなかった。ただ、へえ、と思っただけだった。
あの底の見えない第二皇子にも、そういう気まぐれがあるのか、と。
「――あなたたち。」
翠華の声が、ぴしゃりと落ちた。
「口を動かす分だけ、手が止まっております。それに、ここがどなたのお部屋か、お忘れですか?」
「!も、申し訳ございません……!」
侍女たちが一斉に頭を下げ、部屋は水を打ったように静かになった。
支度が済み、皆が下がると、雨鈴は寝台の縁に腰を下ろした。
着せられているのは、相変わらずの薄い夜着一枚。
初日にあれだけ動転した装いも、続けばさすがに慣れる。慣れる、のだが。
――コン、コン。
「入るぞ。」
入ってきた景辰は、雨鈴を見るなり、迷いのない足取りで衣桁へ向かった。
そして上衣を一枚掴んで戻り、当然のように肩へ着せかける。
もはや、儀式だった。
「……ねえ、毎晩思うんだけど。」
「何だ?」
「そんなに、変?この格好。」
景辰の手が、ぴたりと止まった。
「……変ではない。」
「じゃあ、なんで毎回…」
「変ではないから、羽織らせている。」
言うだけ言って、景辰はさっさと卓の向こうへ行ってしまった。
言葉の意味を、雨鈴は三拍ほど考えた。
考えて、意味に追いついた瞬間、耳まで熱くなった。
(~っ、この人は、本当に!)
上衣の襟を、ぎゅっと掻き合わせる。
慣れる日は、当分来そうになかった。
その招きが届いたのは、翌日の昼だった。
「第二皇子様の側室、琥珀様より。三日後、お宮の庭にて、労いの茶会を催すので、ぜひお運びいただきたいと。……年に一度、お宮に出入りする方々を広く招いて労う、恒例の催しだそうにございます。」
翠華が読み上げた瞬間、部屋の空気が変わった。
第二皇子の宮。
あの、仮面の宴の紅玉がいた場所だ。
「……また?」
「此度は、正式なお招きにございます。日取りも場所も記されておりますし、昼の茶会。前回のような不審な点は、ございません。」
それでも、蒼真の眉は険しかった。翠華の顔も硬い。
その夜。雨鈴は景辰に文を見せた。
景辰は目を通し、しばらく黙って、それから低く息を吐いた。
「……断れんな。」
「断れないの?」
「ああ。」
景辰は文を卓に置き、指先でその端を弾いた。
「客人であった頃なら、断れた。皇家の義理に縛られる筋のない、ただの客だったからだ。……だが、お前はもう、俺の側室だ。」
言いながら、その眉間の皺が深くなっていく。
「兄の宮の側室からの招きを、弟の宮の側室が無下にはできん。それが、後宮の義理だ。」
雨鈴は、その言葉を、どこかで聞いた気がした。
――そして、思い出した。
紅玉の一件のあと、景辰が兄に抗議しに行った夜。
その時に言われた言葉を、蒼楽から聞いたのだ。
「これがお前の側室ならば、話は変わる。兄の宮の側室からの招きを、弟の側室が無下にはできんからな」と。
「……ねえ、それって。」
「ああ。」
景辰の声が、いっそう低くなった。
「あの時、兄上が仰った通りになった。……たった一月で、な。」
部屋の灯りが、小さく揺れた。
偶然だろうか。それとも、あの人は、こうなることを見越して、あの言葉を選んだのだろうか。
あの日、弟に「側室ならば断れぬ」と教え、そして今、その通りの立場になった雨鈴に、招きが届いている。
景辰はしばらく考え込み、やがて顔を上げた。
「行け。ただし、決して油断するなよ。」
「うん。」
「翠華と蒼真は、今度は絶対に離すな。何かおかしいと思ったら、理由は後で考えろ。……高峻に、そう習ったんだろう?」
景辰はそう言って、それきり黙った。
守るための座を与えたのに、その座のせいで断れない招きが来る。
皮肉なものだ、とその横顔が語っていた。
三日後。第二皇子の宮の庭は、驚くほど穏やかだった。
思っていたより、ずっと大きな茶会だった。
秋の花が咲き揃う広い庭に、幾つもの卓が散らばり、宮の内外から招かれた客が三十人あまり。
側室方とその縁者、出入りの文人、宮に品を納める商家の主、どこぞの家中の武官らしき者まで。
男も女も入り混じって、給仕が絶えず行き交い、あちこちで笑い声が上がっている。
労いの茶会、というのは本当らしかった。堅苦しさの欠片もない。
迎えてくれた琥珀は、ふっくらとした頬の、人の好さそうな女性だった。
「まあまあ、よくお運びくださいました。市井のお話を、ぜひ伺いたくて。」
拍子抜けするほど、普通の茶会だった。市の値段の話に目を丸くする者、雨鈴の物言いに笑い転げる者。悪意らしい悪意は、どこにも見当たらない。
(……大丈夫、みたい)
翠華と蒼真も、庭の隅から目を離さずにいてくれる。
今日は、離されなかった。
ようやく肩の力が抜けて、雨鈴は茶を一口含み、何とはなしに庭を見渡した。
――そして、動きが止まった。
人の輪から少し離れた、木立の際。
幾人かの客に混じって、一人の男が立っていた。
仕立ての良い衣。悠然とした立ち姿。そして、その口元を覆う、見慣れた布。
(……嘘)
茶碗を持つ手が、止まったまま動かない。
会うことは、もうないと思っていた。
あの庭で、別れの挨拶までしたのだ。
今まで、ありがとう。あなたと話すの、私、好きだったな――と。
それなのに。
(……どうして、ここに?)
驚きが少し引くと、今度は、小さな引っかかりが残った。
あの人は、身分のある方だ。
城に出入りしていても、何もおかしくはない。
初めて会ったのも、城の廊下だった。
――けれど、あの時あの人は、こう名乗ったはずだ。景辰とは、古い付き合いだ、と。
景辰の古い友人が、なぜ、第二皇子の宮の茶会に?
視線に気づいたのか、男がゆっくりとこちらを向いた。
布の上の目が、まるで示し合わせていたかのように、やわらかく細められる。
そして、当たり前のような足取りで、まっすぐに歩いてきた。
「やあ。」
いつもの、あの声だった。
「久しぶりだな、雨鈴。……いや、今は何とお呼びすればいいのかな。側室様?」




