第五十二話:末席から
祝いの席が果て、人が引いて、灯りが落とされて。
与えられた部屋に一人残されると、雨鈴はようやく、長い一日が終わったことを知った。
――終わって、しまった。
幾重もの婚礼衣装は、とうに脱がされていた。
代わりに着せられたのは、頼りないほど薄い、絹の夜着が一枚きり。
結い上げていた髪も解かれ、背に流されている。
支度を終えた翠華は、なぜか妙にしみじみと雨鈴を眺め、「……では、ごゆっくり」とだけ言って下がっていった。
戸の外の気配も遠のいて、部屋には香の匂いだけが、静かに満ちている。
(……これから、ここで暮らすんだ.。)
寝台の縁に腰を下ろして、両手を膝の上で握る。
宮の客人だった昨日までと、部屋の造りは大して変わらない。
変わったのは、自分の名の後ろに付いた、たった二文字だ。
側室。
その二文字を、口の中で転がしてみる。……側室。
と、そこでふと、部屋の隅に目が留まった。
翠華が整えていった、寝具。
いつもより念入りに伸ばされた掛布。枕が――二つ。
(…………)
(……え?)
心の臓が、ひとつ、大きく鳴った。
(え、待って。待って待って待って)
側室。皇子の、妻の一人。
つまりそれは、そういう――そういうことも、するということで。
(え、ええええ!?)
声にならない悲鳴を上げて、雨鈴は寝台から飛び退いた。
飛び退いてから、この部屋には逃げ場などないことに気づいて、真ん中で立ち尽くす。
立ち尽くして、初めて、自分の格好を意識した。
薄い、夜着一枚。解かれた髪。焚きしめられた、甘い香。
(……これ、そういうことじゃない!どう見ても、そういう支度じゃない!)
「ごゆっくり」の意味が、今さら分かった。
翠華の、あのしみじみとした顔も。
考えてみれば、当たり前の話だった。
当たり前すぎて、今日まで一度も、まともに考えていなかった。
輿入れの支度、作法の稽古、家名の算段。目の前のことに追われて、その先にあるものを、きれいに素通りしていたのだ。
知識が、ないわけではない。
市の女たちは井戸端で、驚くほど遠慮のない話をする。
占いの客にだって、その手の相談は来た。
知っている。知ってはいる。……全部、他人事として。
(私が!? あの人と!?)
顔を、両手で覆う。
指の隙間から、焚かれた香が匂った。
――嫌、ではない。
そこだけは、はっきりしていた。
嫌ではないのだ。
あの手に、何度か引かれてきた。
あの声に、助けられた。
今日、輿を降りるときに重ねた手のひらの熱を、まだ覚えている。
だから、嫌ではない。ないのだけれど。
(心の準備が!心の準備が、まったく足りてない!)
十日。いや、せめて三日欲しい。
三日あれば、たぶん、何とか――何とかなるのだろうか。ならない気もする。
だいたい、あの男はどうなのだ。
今日一日、あの人はどんな顔をしていた。
「よく、来てくれた」と言った、あの、照れたように逸らされた目。
あれは、つまり、そういう。
(だめだめだめ、考えるな私!)
ぶんぶんと首を振ると、簪が揺れて、しゃらん、と鳴った。
その音にまで意味を勘ぐってしまう自分が、心底恨めしい。
落ち着け。落ち着きなさい、蘇雨鈴。
私は、人の未来を視てきた女でしょう。この程度のことで――。
(この程度って何よ!一大事でしょうが!)
一人で百面相を繰り広げていると、控えめな音がした。
「――入るぞ。」
景辰だった。
あの重たい礼装も、冠も、すっかり解いている。
単衣の上に薄い上衣を一枚引っ掛けただけの、ひどく無防備な姿。
結い上げていない髪が、肩にかかっている。
――向こうも、同じだ。
誰もが、今夜そうなるものと思って、二人をこの部屋へ送り込んだ。
その事実が、今の装い一つで、はっきりと形になっていた。
「お、お疲れさま……」
「ああ。」
答えた景辰が、ふとこちらを見て――そこで、動きが止まった。
薄い夜着。解かれた髪。灯りに透ける肩の線。
景辰は一拍で目を逸らし、無言で衣桁へ歩み寄ると、掛かっていた上衣を引き掴み、戻ってきて、雨鈴の肩へばさりと着せかけた。
「え、な、何?」
「……着ておけ。」
「え?でも、寒くは」
「いいから着ておけ。」
妙に据わりの悪い声だった。
押し付けるように肩へ回された手が、ほんの少し、性急だったかもしれない。
「……目の毒だ。」
「え?今、なんて…」
「何も言っていない。」
言っていた。確かに何か言っていた。
けれど聞き返す間もなく、景辰は雨鈴から離れ、卓のそばへ行ってしまう。
妙な沈黙が落ちる。今日まで散々言い合ってきた相手なのに、灯りが二つきりの部屋で向かい合うと、何を話していたのか思い出せない。
雨鈴は羽織らされた上衣の襟を、意味もなく掻き合わせた。
「あ、あのね。」
「雨鈴。」
声が、重なった。
「……お前から言え。」
「い、いい。景辰から。」
景辰は少し黙って、それから、寝台の縁ではなく、卓を挟んだ向かいに腰を下ろした。
わざわざ、そちらを選んだのだと分かる座り方だった。
「……先に、言っておく。」
「うん。」
「この座は、お前を守るための名分だ。だから――お前が望まぬうちは、俺は何もしない。」
雨鈴は、目を瞬いた。
「お前は、俺のわがままでここに来た。市の暮らしを取り上げて、危ない目にも遭わせた。……その上で、座まで押し付けておいて、身体まで寄越せとは言わん。」
ぶっきらぼうな言い方だった。ぶっきらぼうなのに、丁寧に選ばれた言葉だった。
全身から、ふ、と力が抜けた。
――よかった。心底、そう思った。思ったのに。
(…………あれ?)
安堵したはずの胸の隅が、なぜか、ほんの少しだけ、しゅん、としている。
何よそれ。散々うろたえておいて、いざ「何もしない」と言われたら、これ。
(……私、何を期待してたのよ!?)
慌てて奥歯を噛みしめた。危ない。今の考えは、絶対に、誰にも知られてはいけない。
――それにしても。
ああ、この人は。いつだって、こうだ。
強引に手を引いておきながら、最後の一歩だけは、必ずこちらに委ねてくる。
「……ばか。」
「は?」
「なんでもない。」
胸の奥が、じんわりと熱い。
この熱の名前を、雨鈴はまだ知らない。
知らないふりを、しているだけかもしれない。
「一つだけ、いい?」
「言え。」
「これからも、名前で呼んでもいい?側室になっても、その……今まで通り、言い合ったりしても」
景辰は、虚を突かれたような顔をした。それから、ふ、と口の端を上げた。
「当たり前だ。……いまさら、しおらしくされても気味が悪い。」
「一言多い!」
笑い声が、灯りの下でほどけた。
その夜、二人はただ、他愛のない話をして過ごした。
明日の挨拶の段取り、翠華の泣きっぷり、明琳の泣きっぷり。話しながら雨鈴は思った。
この人と、こうして笑っていられる場所を守るために、私はここに来たのだ、と。
――そして景辰は、最後まで、それだけは口にしなかった。
身体は寄越せと言わぬ、と言った。けれど、本当に欲しいものが何かは、言わなかった。
それは、こんな夜に、名分や力ずくで手に入るものではないと、知っていたからだ。
翌朝は、暗いうちから始まった。
輿入れの翌日、新参の側室は、宮中の目上へ挨拶に回らねばならない。
これが後宮の作法であり――同時に、最初の戦場でもある。
「順を、もう一度。」
「いちばんの上座が、皇后陛下。次に、陛下の妃嬪の方々を、位の高い順に。……麗妃様も、そのうちのお一人。ただし私にとっては義母上ですから、改めてご挨拶を。」
「結構。その次は?」
「皇子様方のお宮を、上から順に。第一皇子様のお宮の、ご正妃・秋霞様と側室の方々。次に、第二皇子様のお宮の方々。……そして、いちばん最後が、私。」
「よく覚えられました。」
翠華の手が、簪の角度を直す。その指先が、わずかに震えていた。
広間には、絹が並んでいた。
妃嬪、正妃、側室。位の高い順に座が敷かれ、香が焚かれ、扇の陰で無数の視線が動いている。
月見の宴で遠くから眺めた「格付けの図」の中に、今日は自分も置かれている。
――いちばん下の、端の座に。
名を呼ばれ、雨鈴は進み出て、教わった通りに額づいた。
「――蘇雨鈴にございます。ふつつか者ではございますが、以後、お見知りおきくださいますよう。」
声は、震えなかった。稽古の甲斐は、あったらしい。
最初に声をかけたのは、いちばん高い座――皇后陛下だった。
「面を上げよ。」
静かな、感情の読めない声だった。年の頃は麗妃と同じくらい。
けれどその佇まいは、この広間の誰とも似ていない。
後宮の頂に座しながら、皇子を一人も持たぬ女性。
玉座を巡る争いに、賭ける駒を持たない、ただ一人の人。
「……励みなさい。」
それだけだった。誉めるでもなく、蔑むでもなく。
まるで庭の木の一本を眺めるような目で、皇后は雨鈴を見て、そして興味を移した。
次に応えたのは、麗妃だった。
「よく来たわね。……ここは怖いところだけれど、賢い子は、ちゃんと生き延びるものよ。」
柔らかい言葉に、ほんの少しだけ、棘のような助言が混ぜてある。
雨鈴は深く頭を下げた。
そして。
「まあ、可愛らしい方。」
たおやかな声が、上座から降ってきた。
正妃・秋霞。誰よりも高い座から、誰よりも優しい笑みで、こちらを見下ろしている。
「市井の暮らしから、この後宮へ。……さぞ、勝手が違うでしょう。分からないことがあれば、何でも聞いてちょうだいね。皆、あなたの味方よ。」
広間に、和やかな相槌が広がった。
優しい正妃の、優しい言葉。誰も、疑いなど抱かない。
――なのに、また。
視てもいないのに、指先が、すっと冷えた。
「……ありがたき、お言葉にございます。」
額づいたまま、雨鈴は思う。この冷えの正体を、私はまだ知らない。
けれど、いつか知らなければならない。
挨拶が終わり、絹の群れが順に立ち上がっていく。
位の高い者から、順に。いちばん最後に立ち上がりながら、雨鈴は広間を見渡した。
――ここが、盤の上だ。
客人だった頃は、外から眺めているだけでよかった。
けれど今は違う。
末席とはいえ、自分もこの盤に置かれた駒の一つ。
誰と話すか、何を口にするか、どこに座るか。その全部が、これからは意味を持つ。
守られるだけの客人は、昨日で終わった。
(――さあ、始めましょうか。)
雨鈴は背筋を伸ばし、末席から、静かに歩き出した。




