↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死を諦めた占い師は、皇子に目をつけられた  作者: ここば


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/95

第五十二話:末席から

祝いの席が果て、人が引いて、灯りが落とされて。

与えられた部屋に一人残されると、雨鈴はようやく、長い一日が終わったことを知った。


――終わって、しまった。


幾重もの婚礼衣装は、とうに脱がされていた。

代わりに着せられたのは、頼りないほど薄い、絹の夜着が一枚きり。

結い上げていた髪も解かれ、背に流されている。


支度を終えた翠華は、なぜか妙にしみじみと雨鈴を眺め、「……では、ごゆっくり」とだけ言って下がっていった。

戸の外の気配も遠のいて、部屋には香の匂いだけが、静かに満ちている。

 

(……これから、ここで暮らすんだ.。)

 

寝台の縁に腰を下ろして、両手を膝の上で握る。

宮の客人だった昨日までと、部屋の造りは大して変わらない。

変わったのは、自分の名の後ろに付いた、たった二文字だ。


側室。

その二文字を、口の中で転がしてみる。……側室。


と、そこでふと、部屋の隅に目が留まった。

翠華が整えていった、寝具。

いつもより念入りに伸ばされた掛布。枕が――二つ。

 

(…………)

(……え?)

 

心の臓が、ひとつ、大きく鳴った。

(え、待って。待って待って待って)

側室。皇子の、妻の一人。

つまりそれは、そういう――そういうことも、するということで。


(え、ええええ!?)

声にならない悲鳴を上げて、雨鈴は寝台から飛び退いた。

飛び退いてから、この部屋には逃げ場などないことに気づいて、真ん中で立ち尽くす。

 

立ち尽くして、初めて、自分の格好を意識した。

薄い、夜着一枚。解かれた髪。焚きしめられた、甘い香。

 

(……これ、そういうことじゃない!どう見ても、そういう支度じゃない!)

 

「ごゆっくり」の意味が、今さら分かった。

翠華の、あのしみじみとした顔も。

考えてみれば、当たり前の話だった。

当たり前すぎて、今日まで一度も、まともに考えていなかった。

輿入れの支度、作法の稽古、家名の算段。目の前のことに追われて、その先にあるものを、きれいに素通りしていたのだ。


知識が、ないわけではない。

市の女たちは井戸端で、驚くほど遠慮のない話をする。

占いの客にだって、その手の相談は来た。

知っている。知ってはいる。……全部、他人事として。

 

(私が!? あの人と!?)

 

顔を、両手で覆う。

指の隙間から、焚かれた香が匂った。


――嫌、ではない。

そこだけは、はっきりしていた。

嫌ではないのだ。

あの手に、何度か引かれてきた。

あの声に、助けられた。


今日、輿を降りるときに重ねた手のひらの熱を、まだ覚えている。

だから、嫌ではない。ないのだけれど。

 

(心の準備が!心の準備が、まったく足りてない!)

 

十日。いや、せめて三日欲しい。

三日あれば、たぶん、何とか――何とかなるのだろうか。ならない気もする。

 

だいたい、あの男はどうなのだ。

今日一日、あの人はどんな顔をしていた。

「よく、来てくれた」と言った、あの、照れたように逸らされた目。

あれは、つまり、そういう。

 

(だめだめだめ、考えるな私!)

ぶんぶんと首を振ると、簪が揺れて、しゃらん、と鳴った。

その音にまで意味を勘ぐってしまう自分が、心底恨めしい。

落ち着け。落ち着きなさい、蘇雨鈴。

私は、人の未来を視てきた女でしょう。この程度のことで――。

 

(この程度って何よ!一大事でしょうが!)

一人で百面相を繰り広げていると、控えめな音がした。


「――入るぞ。」

 

景辰だった。

あの重たい礼装も、冠も、すっかり解いている。

単衣の上に薄い上衣を一枚引っ掛けただけの、ひどく無防備な姿。

結い上げていない髪が、肩にかかっている。

 

――向こうも、同じだ。

誰もが、今夜そうなるものと思って、二人をこの部屋へ送り込んだ。

その事実が、今の装い一つで、はっきりと形になっていた。


「お、お疲れさま……」


「ああ。」

 

答えた景辰が、ふとこちらを見て――そこで、動きが止まった。

薄い夜着。解かれた髪。灯りに透ける肩の線。

 

景辰は一拍で目を逸らし、無言で衣桁へ歩み寄ると、掛かっていた上衣を引き掴み、戻ってきて、雨鈴の肩へばさりと着せかけた。


「え、な、何?」


「……着ておけ。」


「え?でも、寒くは」


「いいから着ておけ。」

 

妙に据わりの悪い声だった。

押し付けるように肩へ回された手が、ほんの少し、性急だったかもしれない。


「……目の毒だ。」


「え?今、なんて…」


「何も言っていない。」

 

言っていた。確かに何か言っていた。

けれど聞き返す間もなく、景辰は雨鈴から離れ、卓のそばへ行ってしまう。

 

妙な沈黙が落ちる。今日まで散々言い合ってきた相手なのに、灯りが二つきりの部屋で向かい合うと、何を話していたのか思い出せない。

雨鈴は羽織らされた上衣の襟を、意味もなく掻き合わせた。


「あ、あのね。」

「雨鈴。」

 

声が、重なった。

「……お前から言え。」


「い、いい。景辰から。」

 

景辰は少し黙って、それから、寝台の縁ではなく、卓を挟んだ向かいに腰を下ろした。

わざわざ、そちらを選んだのだと分かる座り方だった。


「……先に、言っておく。」


「うん。」


「この座は、お前を守るための名分だ。だから――お前が望まぬうちは、俺は何もしない。」

 

雨鈴は、目を瞬いた。


「お前は、俺のわがままでここに来た。市の暮らしを取り上げて、危ない目にも遭わせた。……その上で、座まで押し付けておいて、身体まで寄越せとは言わん。」

 

ぶっきらぼうな言い方だった。ぶっきらぼうなのに、丁寧に選ばれた言葉だった。

全身から、ふ、と力が抜けた。


――よかった。心底、そう思った。思ったのに。


(…………あれ?)


安堵したはずの胸の隅が、なぜか、ほんの少しだけ、しゅん、としている。

何よそれ。散々うろたえておいて、いざ「何もしない」と言われたら、これ。

 

(……私、何を期待してたのよ!?)

 

慌てて奥歯を噛みしめた。危ない。今の考えは、絶対に、誰にも知られてはいけない。

――それにしても。

ああ、この人は。いつだって、こうだ。

強引に手を引いておきながら、最後の一歩だけは、必ずこちらに委ねてくる。


「……ばか。」


「は?」


「なんでもない。」

 

胸の奥が、じんわりと熱い。

この熱の名前を、雨鈴はまだ知らない。

知らないふりを、しているだけかもしれない。


「一つだけ、いい?」


「言え。」


「これからも、名前で呼んでもいい?側室になっても、その……今まで通り、言い合ったりしても」

 

景辰は、虚を突かれたような顔をした。それから、ふ、と口の端を上げた。


「当たり前だ。……いまさら、しおらしくされても気味が悪い。」


「一言多い!」

 

笑い声が、灯りの下でほどけた。

その夜、二人はただ、他愛のない話をして過ごした。

明日の挨拶の段取り、翠華の泣きっぷり、明琳の泣きっぷり。話しながら雨鈴は思った。

この人と、こうして笑っていられる場所を守るために、私はここに来たのだ、と。

 

――そして景辰は、最後まで、それだけは口にしなかった。

身体は寄越せと言わぬ、と言った。けれど、本当に欲しいものが何かは、言わなかった。

それは、こんな夜に、名分や力ずくで手に入るものではないと、知っていたからだ。

 

翌朝は、暗いうちから始まった。

輿入れの翌日、新参の側室は、宮中の目上へ挨拶に回らねばならない。

これが後宮の作法であり――同時に、最初の戦場でもある。


「順を、もう一度。」


「いちばんの上座が、皇后陛下。次に、陛下の妃嬪の方々を、位の高い順に。……麗妃様も、そのうちのお一人。ただし私にとっては義母上ですから、改めてご挨拶を。」


「結構。その次は?」


「皇子様方のお宮を、上から順に。第一皇子様のお宮の、ご正妃・秋霞様と側室の方々。次に、第二皇子様のお宮の方々。……そして、いちばん最後が、私。」


「よく覚えられました。」

翠華の手が、簪の角度を直す。その指先が、わずかに震えていた。

 

広間には、絹が並んでいた。

妃嬪、正妃、側室。位の高い順に座が敷かれ、香が焚かれ、扇の陰で無数の視線が動いている。

月見の宴で遠くから眺めた「格付けの図」の中に、今日は自分も置かれている。

――いちばん下の、端の座に。

 名を呼ばれ、雨鈴は進み出て、教わった通りに額づいた。


「――蘇雨鈴にございます。ふつつか者ではございますが、以後、お見知りおきくださいますよう。」

 

声は、震えなかった。稽古の甲斐は、あったらしい。

最初に声をかけたのは、いちばん高い座――皇后陛下だった。


「面を上げよ。」

静かな、感情の読めない声だった。年の頃は麗妃と同じくらい。

けれどその佇まいは、この広間の誰とも似ていない。

後宮の頂に座しながら、皇子を一人も持たぬ女性。

玉座を巡る争いに、賭ける駒を持たない、ただ一人の人。


「……励みなさい。」

 

それだけだった。誉めるでもなく、蔑むでもなく。

まるで庭の木の一本を眺めるような目で、皇后は雨鈴を見て、そして興味を移した。

 

次に応えたのは、麗妃だった。


「よく来たわね。……ここは怖いところだけれど、賢い子は、ちゃんと生き延びるものよ。」

 

柔らかい言葉に、ほんの少しだけ、棘のような助言が混ぜてある。

雨鈴は深く頭を下げた。

 

そして。


「まあ、可愛らしい方。」

 

たおやかな声が、上座から降ってきた。

正妃・秋霞。誰よりも高い座から、誰よりも優しい笑みで、こちらを見下ろしている。


「市井の暮らしから、この後宮へ。……さぞ、勝手が違うでしょう。分からないことがあれば、何でも聞いてちょうだいね。皆、あなたの味方よ。」

 

広間に、和やかな相槌が広がった。

優しい正妃の、優しい言葉。誰も、疑いなど抱かない。

 

――なのに、また。

視てもいないのに、指先が、すっと冷えた。


「……ありがたき、お言葉にございます。」

 

額づいたまま、雨鈴は思う。この冷えの正体を、私はまだ知らない。

けれど、いつか知らなければならない。

 

挨拶が終わり、絹の群れが順に立ち上がっていく。

位の高い者から、順に。いちばん最後に立ち上がりながら、雨鈴は広間を見渡した。

 

――ここが、盤の上だ。

客人だった頃は、外から眺めているだけでよかった。

けれど今は違う。

末席とはいえ、自分もこの盤に置かれた駒の一つ。

誰と話すか、何を口にするか、どこに座るか。その全部が、これからは意味を持つ。

守られるだけの客人は、昨日で終わった。

 

(――さあ、始めましょうか。)

 

雨鈴は背筋を伸ばし、末席から、静かに歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。