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死を諦めた占い師は、皇子に目をつけられた  作者: ここば


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第五十一話:輿入れの日

その日は、朝から、よく晴れた。

沈家の邸で身支度を整えられながら、雨鈴は現実感のないまま、鏡の中の自分を眺めていた。

紅を差され、幾重にも衣を重ねられ、髪には月の簪と、その対の玉の簪。

鏡の中にいるのは、東の裏通りで客あしらいをしていた占い師では、もうなかった。

誰か知らない、綺麗な娘が、こちらを不安げに見返している。


「……お綺麗ですよ、雨鈴様。」


翠華の声が、少し湿っていた。


「泣かないでよ、翠華。私まで、化粧が崩れるでしょ。」


「泣いてなど、おりません。」


言いながら、しっかり目元を押さえている。

この生真面目な女官が、毒に倒れ、稽古に励み、ここまで付いてきてくれた。

その事実だけで、雨鈴は胸がいっぱいになった。


「翠華。……これからも、よろしくね。」


「……もちろんです。どこまでも、お供いたします。」


沈家の門前には、迎えの輿が着いていた。

義母となった明珠が、雨鈴の両手を、包むように取った。


「行ってらっしゃい。……何かあれば、いつでもお戻りなさい。ここは、あなたの家なのだから。」

 

義理の、形だけの家。名前を借りるだけの、道具のような話。

そう思っていたはずなのに、その言葉は、まっすぐに胸へ届いた。


「はい。……行って、まいります。お母さま。」

 

初めてそう呼ぶと、明珠の目が、みるみる潤んだ。


「まあ……いけない子。こんなところで、泣かせるなんて。」

 

その傍らでは、義姉となった明琳が、もう堪えきれずに泣きじゃくっていた。


「わたくし、絶対に、絶対に会いに行きますから!」

 

雨鈴の胸が、ぎゅっとなる。

ほんの少し前まで、この城には、味方の一人もいなかった。

名前を呼んでくれる友さえ、いなかった。

それが今は、母と、姉が、こうして泣いて見送ってくれる。


「うん。……待ってるからね、お姉さま。」

 

妹として、精一杯の顔で笑ってみせる。

すると明琳は、余計に大きな声で泣いた。

輿に乗り込む間際まで、その手は、振られ続けていた。

 

輿が、ゆっくりと進む。

簾の隙間から、見慣れた都の景色が、後ろへ流れていく。

あの市。あの通り。

かつて自分が、たった五分の未来と引き換えに、日銭を稼いでいた場所。

 

(……遠くまで、来ちゃったな。)

 

初めて会った日、あの強引な皇子は、こう言った。

お前の目を、俺のために使え、と。あの時の驚きは忘れていない。


今はどうだろう。

明日を、見たいと思っている。

あの人の隣で、自分に何ができるのかを、知りたいと思っている。

かつては、明日が来ることそのものが、ただ重たいだけだったのに。

 

(……ずいぶん、欲張りになったものね。)

 

簾の向こうの空は、どこまでも青い。雨鈴は、その青を、まっすぐに見つめていた。

 

輿が城門をくぐり、幾つもの角を折れて、やがて、止まった。

簾が上げられる。

差し出されたのは、見慣れた手だった。


「――着いたぞ。」

 

景辰が、輿の前に立っていた。

礼装の皇子は、いつもより幾分、居心地の悪そうな顔をしている。

その表情が、なぜだか妙に可笑しくて、緊張が少しほどけた。

その手に、自分の手を重ねて、雨鈴は輿を降りた。


「……なあ。」


「なに?」


「よく、来てくれた。」

 

ぶっきらぼうに、けれど、確かにそう言った。

見上げれば、いつも余裕たっぷりの男が、ほんの少しだけ、照れたように目を逸らしている。

雨鈴は、ふふ、と笑った。


「こちらこそ、これからよろしくお願いします。」


繋いだ手は、しばらく、離れなかった。

こうして、市井の占い師・蘇雨鈴は、沈家の養女として、第三皇子・景辰の側室となった。

末席の、いちばん下の座から。

後ろ盾も、財も、家柄の力もない、名ばかりの側室。

それでも雨鈴の胸には、恐れよりも、静かな決意があった。

 

この目を、この力を、正しく使う。あの人が民のために振るう腕を、その死角から支える。

守られるだけでなく、隣に立って、共に歩く。

――さあ、ここからだ。

占い師だった娘の、後宮での本当の戦いは、今からだ。


その報せは、その日のうちに、隅々まで広がった。

ある一室では、玉蓉が、癇癪まぎれに茶器を鳴らしていた。


「市井の女が、側室ですって?しかも、沈家の養女に化けて……!冗談じゃないわ。あの座は、いずれ私が、と……!」

 

言いかけて、玉蓉は口をつぐんだ。詩会で恥をかかされた記憶が、苦い味と共に蘇る。

あの女には、いつも、一杯食わされてきた。

悔しさに唇を噛みながらも、正面から挑む愚だけは、もう犯すまいと、彼女なりに学んではいた。


「……お覚えていらっしゃい。市井の作法が、いつまで後宮で通じるものか。」


捨て台詞は、けれど、どこか力がなかった。


そして――第二皇子の宮。

景明は、その報せを、庭の四阿で聞いた。


「左様か。……輿入れは、滞りなく。」


「は。本日、恙なく。」

 

柏峰の報告に、景明は短く頷いた。

手にした書物へ視線を戻し、それきり、何も言わない。

いつもの、底の読めない横顔だった。

柏峰は一礼して、静かに下がっていく。

 

一人になると、景明は、読んでいた頁を、ゆっくりと閉じた。

市で仕入れた、絵の多い、他愛のない読み物。

かつて、ある娘が「三回読んだ」と、子供のように笑った、あの続きだった。


「……側室、か。」

 

呟きは、風にさらわれて、誰の耳にも届かない。

布の下の口元が、笑ったのか、そうでなかったのか。

それを見ている者は、庭の梅のほかには、いなかった。


そして、第一皇子の宮では。

正妃・秋霞が、同じ梅を、静かに眺めていた。


「市井の娘が、側室に、ね。」


侍女の差し出す茶を、一口。

秋霞は、たおやかに微笑んだ。

誰が見ても、非の打ちどころのない、賢夫人の微笑みだった。


「面白い子だこと。……次は、どんな顔を、見せてくれるのかしら。」

 

その微笑みの奥が、少しも笑っていないことに気づく者は、この場には、誰もいなかった。

――役者は、揃った。

月の下で始まった娘の物語は、いよいよ、後宮という名の盤上へと、進んでいく。


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