第五十話:輿入れ支度
沈家の養女となってからの日々は、目の回る忙しさだった。
側室の輿入れには、決まりごとが山ほどある。
装束の寸法合わせ、道具の目録、輿の格式、当日の作法。
翠華と、沈家から遣わされた女官たちに囲まれて、雨鈴は連日、朝から晩まで引き回された。
「雨鈴様、背筋。輿の上でも、それは見られております。」
「はい、はい。」
「返事は一度。」
「はい。」
占い屋の帳場で客あしらいをしていた娘が、皇子の側室になる。
その距離の遠さを、雨鈴は一針ごと、一礼ごとに、思い知らされていた。
支度の合間、雨鈴は久しぶりに、あの庭へ出た。
この頃はとんと会っていなかった。
もう会えないかもしれない、とすら思っていた。
それでも足が向いたのは――やはり、あの布のことが、心のどこかに引っかかっていたからだ。
木立の下に、その人はいた。
「……志遠さん。」
「やあ。ずいぶん、めでたい話だと聞いたが。」
布の上の目は、いつも通り笑っていた。
いつも通りのはずなのに、雨鈴は、どうしてだか、うまく言葉が出てこなかった。
「うん。……私、皇子様の、側室になるの。」
「知っている。」
「なんで知って……って、いつもそうよね、あなた。」
「さて、何でだろうな。」
いつもの、はぐらかし。いつもの、掴めない会話。
それがなぜか、今日は少しだけ、寂しかった。
「あのね、志遠さん。」
「ん?」
「側室になったら……もう、こうやって、勝手に城の外の人と会ったりは、できなくなると思う。だから」
言いながら、自分でも驚くほど、声が小さくなった。
「今まで、ありがとう。あなたには、何度も助けられた。……あなたと話すの、私、好きだったな。」
過去の形で言ってしまってから、慌てた。
まだ、終わってもいないのに。
志遠は、しばらく黙っていた。
それから、いつもの軽さとは少し違う声で、ぽつりと言った。
「――俺は、まだ、君と話し足りないんだがな。」
「え?」
「何でもない。」
布の上の目が、ふ、と細くなる。
そして志遠は、いつものように立ち上がった。
「おめでとう、雨鈴。……達者でな。」
軽く手を上げて、木立の向こうへ消えていく。
その背中を見送りながら、雨鈴は、胸の奥がなぜか、しん、と冷えるのを感じた。
嬉しいことのはずなのに。望んだ場所へ、進んでいるはずなのに。
どうして、こんなに――何かを、置き去りにするような気持ちになるのだろう。
(……刺繍した布、まだ、使ってくれてるのかな)
どうでもいいことが、ふと、頭をよぎった。
その夜。
景辰の房で、雨鈴は支度の進み具合を報告していた。
「道具の目録も、あらかた片付きました。あとは、当日を待つばかりです。」
「そうか。……疲れているな。」
「え?」
「顔に出ている。」
図星だった。庭でのことが、まだ胸の底に沈んでいる。
それを景辰に見抜かれたことが、なぜだか、ばつが悪かった。
「べ、別に。ちょっと、支度が立て込んでるだけよ。」
「……無理はするな。」
景辰は、それ以上は問わなかった。
問わずに、卓の上に、小さな包みを置いた。
「何、これ?」
「開けてみろ。」
開けると、中には、一対の玉の簪。
月の意匠の、あの簪と対になる、細工の揃いのものだった。
「輿入れの日に、挿せ。……月のと、揃いだ。」
ぶっきらぼうな声。
けれど、選ばれた意匠が、全部を語っていた。
あの、蒼真の選んだ簪を他人に譲った日から、この男が挿させたがっているのは、ずっと、自分の贈ったものだけ。
庭で冷えた胸の奥に、じんわりと、温かいものが差してくる。
「……ありがとう。大事に、するね。」
その夜だけは、志遠の布のことを、少しだけ、忘れていられた。




