第四十九話:借りものの家名
翌朝、雨鈴は景辰と共に、再び麗妃の宮へ呼ばれた。
昨夜の今日である。
父帝の裁定――「後ろ盾となる家名を整えよ」――の答えを、蘭月はもう用意しているに違いなかった。案の定、部屋に入るなり、蘭月は開口一番こう言った。
「もう、話はつけてあるわ。」
「……早い。」
景辰が呆れたように呟く。
蘭月は扇の陰で、いたずらが成功した子供のように笑った。
「陛下がお許しになる前から動いていたなんて、口が裂けても言えないけれどねえ。
……雨鈴さん。あなた、沈家の養女におなりなさい。」
「――沈家?」
聞き覚えのある名だった。明琳の。あの、初めての友の。
「明珠さんとは、昨日のうちに話したの。あちらは二つ返事よ。……いいえ、それどころか、涙ぐんでいたわ。」
その日の午後、雨鈴は沈家の邸へ招かれた。
迎えたのは、明珠と――明琳だった。
「雨鈴様!」
明琳は駆け寄るなり、雨鈴の両手を握った。
「聞きました、お話! わたくし、あなたと本当の姉妹になれるんですって!?」
「え、あ、その……ご迷惑じゃ、ないの?だって、家の名前を貸すなんて、大変なことでしょう。何かあれば、沈家にも累が。」
雨鈴の声が、だんだん小さくなる。名を借りる。
それは、沈家に迷惑をかけるということだ。断られて当然、と身構えていた。
けれど、明珠は静かに首を振った。
「雨鈴さん。うちはね、あなたに、返しきれない借りがあるの。」
「借り……?」
「明琳と、子謙どののこと。あなたがいなければ、あの子たちは、すれ違ったまま終わっていたかもしれない。……娘の一生の幸せを、あなたは繋いでくれたのよ。」
「あれは、私は、ただ空回っていただけで。」
「空回りでも、動いてくれたでしょう。他人の娘のために。」
明珠の目が、優しく細められた。
「その恩を、家の名ひとつで返せるなら、安いものだわ。……それにね」
ちらり、と明琳を見る。
「この子が、本当の妹ができると、それはもう、はしゃいでしまって。」
「お母さま!」
顔を赤くする明琳に、雨鈴は思わず噴き出した。噴き出して――それから、鼻の奥が、つんとした。
名前を借りるだけの、道具のような話だと思っていた。
なのに、この家は、それを「姉妹になる」と呼んでくれる。
「……ありがとう、ございます。ふつつか者ですが、その、妹に……していただけたら。」
「まあ!決まりね!」
明琳が飛び上がって喜ぶ横で、明珠は懐から一枚の紙を取り出した。
「では、さっそくだけれど。……養女に入るというのは、形だけとはいえ、うちの娘になるということ。しきたりも、家の格も、背負っていただくことになるわ。それも含めて――よろしくて?」
紙には、沈家の系図が記されていた。空いた一枝の先に、雨鈴の名が入る場所が、確かにあった。
「はい。――よろしく、お願いします。」
その夜。景辰の宮に戻った雨鈴は、報告がてら、昼のことを話した。
「――というわけで、私、明日から沈家のお嬢様なんですって。ふふ、変なの。」
「そうか。」
景辰は書類から顔を上げ、しばらく雨鈴を眺めていた。
「……何よ。」
「いや。……よかったな。」
ぶっきらぼうな、けれど嘘のない一言だった。雨鈴は少し面食らって、それから、笑った。
「うん。……よかった。」
名分のない客人だった娘が、明日には、家名を持つ。
側室への道が、一つ、また一つと、現実の形になっていく。
――ただ。
その夜、寝台に入ってから、雨鈴はふと、昨夜の茶室を思い出していた。
東の裏通り。よく当たる、と評判の店。
陛下は、なぜあれを知っていたのだろう。誰から、聞いたのだろう。
追わないと言ったあの目は、本当に、追う気がないのだろうか。
温かい一日の終わりに、ひとつだけ、冷たい小骨が、喉の奥に残っていた。
――占い師の秘密は、どこまで、守り切れるのだろう。




