第四十八話:茶室にて
宴の果てた後の茶室は、池の畔とは別の国のように静かだった。
炉の湯気がひとすじ。
灯りは二つ。人払いされた小さな部屋の奥に、皇帝・黎玄淵は宴の装束のまま座していた。
酒気は目元に残っている。
けれどその奥の検分の光は、月の下で見たものと寸分違わなかった。
「……固くなるな。ここは政の場ではない。」
言われて楽になれるなら、苦労はない。
景辰と並んで膝をつき、雨鈴は湯気の行方だけを見ていた。
「景辰。申したいことがあるのだろう。申せ。」
「は。――此度、恐れながら父上にお願いの儀があり」
「型はよい。」
玄淵は茶碗を取り、短く遮った。
「型どおりの口上なら、書面で足りる。……お前の言葉で、申せ。」
景辰が、一度、息を整えた。
「――この者を、側室に迎えたく存じます。」
湯気の向こうで、父帝の眉ひとつ、動かなかった。
「理由は?」
「この者は、私の宮の客人という立場のまま、二度、悪意に晒されました。客人の身分では、守る名分がありません。名分を与え、堂々と守りたい。それが一つ。」
「一つ、ということは、まだあるのだな。」
「……は。」
景辰は、そこで初めて言い淀んだ。飾りも逃げ道もない本音を、口に出すと決めた男の顔で。
「――手放したく、ありません。」
雨鈴は思わず隣を見た。見なければよかった。
耳まで赤いくせに、まっすぐ前だけを向いている横顔があった。
こちらの頬まで熱くなるから、本当にやめてほしい。
「……ふ。」
玄淵は茶を含み、それから、視線を雨鈴へ移した。
「娘。そなたに問う。」
「は、はい。」
「側室になれど、後から来た家柄の娘に、順を幾度も抜かれよう。市井の出とあらばな。それでも良いのか?」
――来た。麗妃に言われたのと、同じ問い。答えは、あの時から変わっていない。
「構いません。」
「即答か。」
「席の順は、私の望むものではありませんので。……私が望むのは、この方の隣で、役に立てる居場所です。末席でも、それは変わりません。」
「……相談事の商い、と申したな。」
玄淵の声が、すっと温度を変えた。
「東の裏通り。よく当たる、と評判の店があったそうだな。」
心の臓が、一拍、止まった。
湯気の向こうの目が、こちらの何かを、静かに測っている。知っているのか。どこまで。誰から。
「……お客様の、お話をよく聞くのが取り柄でございましたので。」
「そうか。」
玄淵は、それ以上、追わなかった。追わないことが、かえって底知れなかった。
「――まあ、よい。」
茶碗が、静かに置かれた。
「景辰。市井の娘をそのまま宮に入れるわけにはいかん。順と、体裁というものがある。……後ろ盾となる家名を整えよ。話は、それからだ。」
「は。……では」
「整えた暁には――許す。」
景辰が、深く、頭を下げた。
雨鈴も慌ててそれに倣う。
下げた頭の上に、思いがけず、続きの声が降ってきた。
「家名の算段なら、麗妃に相談せよ。……どうせあれのことだ。朕が許すより先に、算段は済ませておろう。」
「…………」
母子の企ては、とうの昔に見抜かれていたらしい。
この夫婦も、大概だった。
「……景辰。」
退出の間際、玄淵は息子の名を、もう一度呼んだ。
「お前は、人を近づけぬ子であった。熱を出して倒れても、助けの一つも呼ばぬ。……朕は、それを強さと呼んでやれなんだ。」
景辰の背が、わずかに強張った。
「浮いた噂の一つもないと聞くたび、案じておった。あれは、独りで完結する気かとな。……今宵、隣に膝をつく者を連れて参った。それで、十分だ。」
それから皇帝は、雨鈴へ目を移し、目元だけで、ほんの少し笑った。
「娘。――使う方の腕次第、と申したな。」
「は、はい……申し、ました……」
「ならば、使い手の腕がどれほどのものか。……朕が、見届けてやろう。」
それが、この夜の裁定の、すべてだった。
茶室を出ると、廊下の柱の陰に、小柄な人影が待っていた。
「――首尾は?」
扇の上の目が、もう答えを知っている顔で笑っている。
景辰は深いため息をつき、母の横を素通りしながら言った。
「……全部、ご存じだったそうですよ。家名の算段まで。」
「あらあら。夫婦ですもの、何でもお見通しなのねぇ。」
ころころと笑う蘭月を残し、二人は夜の回廊を歩き出した。
月は、傾き始めている。長い長い一夜が、ようやく終わろうとしていた。
「……ねえ。」
「何だ。」
「手放したくない、って。」
「――言うな。」
「聞こえたもの。」
「忘れろ。」
「やだ」
前を行く耳が、月明かりでも分かるほど赤い。
雨鈴は笑いを噛み殺して、その半歩後ろを歩いた。
側室になる。あれほど遠かった話が、今夜、現実に動き出した。
胸の奥で、湯気のように温かいものと――茶室で一瞬だけ触れられた、冷たい何かとが、静かに同居していた。




