第四十七話:月下の御前
池の端から上段までの道のりが、これほど長いとは思わなかった。
一歩ごとに、視線が刺さる。
妃たちの扇が囁きを隠し、皇子たちの席が静まり、楽の音だけが所在なげに続いている。
(目立たない、が心得だったのに。……初日で全滅じゃない。)
場違いな悪態を胸の内でつけたおかげで、足の震えだけは、どうにか隠せた。
市育ちを嘗めないで。荷車の間も、借金取りの前も、渡ってきた足だ。
上段の手前で膝をつき、教わった通りの礼をする。
と、衣擦れの音がひとつ、隣に並んだ。
顔を上げなくても分かる。景辰だ。
呼ばれてもいないのに、当然の顔で隣に膝をついている。
ざわ、と席がどよめいた。
「……景辰。朕は、娘を呼んだ。」
「は。ですが、私の客ですので。」
悪びれもしない返答に、上段の気配が、わずかに揺れた。
呆れたのか、笑ったのかは、分からなかった。
「――面を上げよ。」
低い声に従って、雨鈴は顔を上げた。
初めて間近に見る皇帝・黎玄淵は、思ったより老いて、思ったより静かだった。
酒気で目元だけが緩んでいる。けれどその奥の光は、息子たちのそれと同じ――いや、比べものにならないほど深い、検分の色をしていた。
「名は?」
「蘇雨鈴と、申します。」
「生まれは?」
「市井にございます。」
「景辰との出会いは?」
「出会いは都の、東の裏通りで。」
ざわめきが、また波打つ。分かっていたはずのことでも、本人の口から聞くのとでは違うらしい。
「商いは?」
「市で……人様の相談事を聞く、小さな商いを。」
嘘は、ついていない。
占いとは、つまるところ相談事だ。
玄淵はしばし黙り、盃をひとつ干して、それから、静かに切り込んできた。
「では、問おう。――市井の女が、皇子の傍らで、何の役に立つ?」
池の畔が、しんと冷えた。
残酷なほどまっすぐな問いだった。
家柄もない。財もない。後ろ盾もない。
ならばお前は何を持ってきた、という問い。
誰もが胸の内で思い、誰も口にしなかったことを、この国で唯一、口にしていい人が口にした。
隣で、景辰が息を吸う気配がした。庇う気だ。――でも。
(これは、私が答える問いだわ)
雨鈴は、まっすぐに顔を上げたまま、答えた。
「……私は、殿下の目に映らないものを、見て参りました。」
「ほう?」
「役人の顔色ひとつで上がり下がりする、米の値を。絹の届かない軒先の、冬の寒さを。お触れの紙が読めない者が、どれほど損をして生きているかを。……市井の暮らしには、城からは見えないことが、山ほどございます。」
声は、震えなかった。飾る言葉を知らないから、知っていることだけを話した。
「殿下は、民のことを真剣にお考えになり、ご自分で動かれる方です。私はそれを、この目で見て知っております。――その殿下の目の届かない場所を、私が見て参りました。これからも、見るつもりでございます。役に立つかどうかは……恐れながら、使う方の腕次第かと。」
最後の一言は、余計だったかもしれない。
言ってから青ざめた雨鈴の隣で、景辰が固まり、遠くの席で誰かが噴き出しかけて咳に変えた。
あの咳は多分、蒼楽だ。
上段は、長いこと、静かだった。
池の面で月が揺れ、灯籠の火が爆ぜる。永遠にも思える沈黙の果てに――。
「……ふ。」
短い息が、笑いの形に漏れた。
「面白い。」
玄淵は盃を置き、初めて、目元だけで笑った。
「使う方の腕次第、ときたか。……朕の御代で、朕の前でそれを言った者は、久しくおらなんだわ。」
それから皇帝の目は、隣の息子へ流れた。
「景辰。浮いた噂の一つもなく、朕をさんざん案じさせたお前が……なるほど、な。」
含みのある言い方に、居並ぶ席のあちこちから、こらえきれない忍び笑いが漏れた。
景辰の耳が、月明かりでも分かるほど赤い。
「――宴が果てたら、朕の茶室へ参れ。」
玄淵は盃を取り直し、何でもないことのように言った。
「二人ともだ。」
席へ戻る頃には、雨鈴の膝は綿になっていた。
「雨鈴様……! ようございました、本当に、本当に……!」
池の端で待っていた翠華が、半分泣きながら迎えてくれる。
対岸の三番目の席から、偉そうな座り方の人影が、こちらへ小さく頷いたのが分かった。
妃たちの列では、小柄な人影が扇の陰で肩を揺らしている。
あれは絶対、笑っている。
雨鈴は息を吐き、まだ高い月を見上げた。
宴は、越えた。でも、夜はまだ終わらない。
――本番は、これからだ。




