第四十六話:月見の宴
それぞれの準備のうちに日々は過ぎ、月見の宴の日が来た。
雨鈴は景辰の誂えた薄絹の衣に袖を通し、髪には月の簪を挿した。
この日ばかりは翠華も手隙の女官を借り出しての総出で、支度には昼前から刻がかかった。
「心得の復習を。席は?」
「客人だから、池の端の隅の席。目立たない。問われるまで話さない。もし誰かに問われたら、『殿下のお客にございます』とだけ、短く。」
「結構にございます。」
言えるようになったものだ、と自分でも思う。
……言える、のと、できる、のが別物だということは、この後すぐに思い知るのだが。
宴の場は、月を映すために水を張った広い池の畔だった。
幾百の灯籠。奏でられる楽。絹の衣擦れ。
――そして雨鈴の席は、その全部から、遠かった。
当然だった。側室になる話は、まだ陛下の耳にすら入っていない。
今の雨鈴は景辰の宮に置かれた一介の客人で、連れの武官や文官の末席にすら、連なる身分ではないのだ。
招かれただけ僥倖、という池の端の端。上段の顔かたちなど、灯りと距離で、滲んでまるで見えない。
けれど――見えなくても、分かった。
高峻の講義と翠華の説明が、頭の中で席次の図になっている。宴の席順は、そのまま城の格付けなのだ。
(池の正面、一番奥の一段高いところ。あの位置に座れるのは、ただ一人。……あれが、陛下)
皇帝・黎玄淵。
顔は見えない。見えないのに、その一角だけ空気が静かに張り詰めているのが、池のこちら側まで伝わってくる気がした。
(その右手に並ぶのが、妃嬪の方々。並びは、位の順――)
その列の中ほどに、見慣れた輪郭を見つけて、少しだけ息が楽になった。
扇の持ち方と、小柄な形。
あれはきっと、蘭月様だ。顔は見えなくても、形で分かる。
(池を挟んだ向かいの弧が、皇子様たち。格の高い順に、内から外へ……一番内側が、第一皇子様。お隣が、正妃の秋霞様。その後ろの列が側室の方々だから、先頭は紫蘭様、かな?)
(内から二番目、あのやたらと人が集まってる辺りが……第二皇子様ね。噂通りの人気ぶり。)
第二皇子の席の周りだけ、人影が引きも切らずに動いている。
大臣らしき影、使いらしき影。誰にでも杯を上げているようだった。
(三番目が景辰。……うん、あれは見なくても分かるわ。座り方が偉そうだもの。)
(その先の小さいのが第四皇子様、十四の。お隣が第五皇子様と、ご婚約者様……)
顔の見えない人影の並びが、講義の通りに一人ずつ名前と重なっていく。
なるほど、これが城というものか。顔ではなく、座る場所が人を語る。
と――その時。
二番目の席の遠い人影が、誰かへ軽く、手を上げた。
豆粒ほどの、ただの仕草。なのに、その手の上げ方に、なぜだか、既視感が疼いた。
(……あれ?今の……)
誰かに、似ていた気がする。
誰だったか。思い出せそうで、思い出せない。
喉に引っかかった小骨のような感覚は、しかし次の楽の音で、あっけなく流されてしまった。
宴が進み、盃が幾巡かした頃。
池の端の席に、ざわめきが走った。
上段の方から、侍女を従えた貴人が、わざわざこちらへ歩いてくる。
末席の客たちが慌てて頭を下げていく波の先が――雨鈴の前で、止まった。
「――あなたが、雨鈴さん?」
顔を上げて、息を呑んだ。据えられた灯りの近さで、初めてその顔が見えた。
たおやかに微笑む、絵に描いたような賢夫人。
この席次でこちらへ足を運ぶ人といえば、一人しか教わっていない。……正妃・秋霞様だ。
「お噂は、かねがね。……先の茶会では、恐ろしいことでしたわね。紫蘭さんの席で、あのような。あなたもお付きの方も、ご無事で本当に何よりでした。」
「……もったいない、お言葉にございます。」
習った通りの礼が、習った通りに出た。出たのに。
なぜだろう。視てもいないのに――指先が、すっと冷えた。
「これに懲りず、後宮と仲良くしてくださいましね。ふふ、では。」
衣擦れの音を残して、正妃は上段へ戻っていく。
その後ろ姿は、どこから見ても非の打ちどころのない、賢夫人のものだった。
(……今の、何?どうして私、冷えたの……?)
理由の分からない怖気の意味を、この時の雨鈴は、まだ知らない。
やがて月が中天に近づき、宴はたけなわを迎えた。
池の面の月が揺れ、盃が上がり、どこかで笑い声が弾ける。
何事もなく、夜は更けていく――そう、思われた矢先だった。
上段から、静かな声がひとつ、落ちた。
「――景辰。」
楽の音が、す、と細くなる。
居並ぶ視線が、一斉に第三皇子へ集まった。
「は。……父上。」
「近頃、面白い噂ばかりが、朕の耳に届く。……その噂の娘が、今宵、来ておるのだろう?」
池の畔の視線という視線が、上段の言葉を追って泳ぎ――やがて、端の端の、一人の娘の上に集まった。
「――近う。」
池の畔が、静まり返った。
予定では、報告は宴の後。
人払いをした、私の場で。母子で入念に組んだ段取りは、たった一言で、月の下の衆目の真ん中へ引きずり出された。
(……だから言ったのに。「何事もなく」なんて、絶対ないのよ、この城!)
雨鈴は覚悟を決めて、立ち上がった。




