第四十五話:忙しい日々
護身の師は、大方の予想通りの男に決まった。
「……謹んで、拝命いたします。」
命じられた蒼真は、これ以上ないほど嫌そうな顔で、これ以上ないほど正しい礼をした。
稽古は翌朝から、宮の裏庭で始まった。
「いいですか。まず、勝とうと思わないでください。あなたの勝ちは、逃げ延びることです。掴まれたら、振り解く。振り解いたら、走る。走りながら、声を出す。……はい、掴みますよ。」
教え方は、ぶっきらぼうのくせに、驚くほど順序立っていた。
手首の抜き方。腰を落とす足の形。
人を呼ぶなら「助けて」ではなく「火事だ」と叫べ、ということ。
短剣は刺すためでなく、振って間合いを作り、逃げる隙を稼ぐためのものだということ。
「――あなた、覚えが早いですね。」
「ふふん。市育ちを嘗めないで。荷車の間を縫って走るのは得意なの。」
と、そこへ。
「蒼真様。――私にも、お教えください。」
袖を襷で括った翠華が、稽古着姿で立っていた。蒼真が、ぎょっとする。
「……翠華さんまで、なぜ?」
「私は毒見の後役立たずでした。倒れて、雨鈴様に泣いていただくばかりで。」
翠華の声は、静かだった。
「二度と、盆を持ったまま倒れるだけの者ではいたくないのです。お側に立つ者として、せめて雨鈴様の手を引いて逃げられるだけの術を。」
「翠華……」
雨鈴が感じ入って両手を握る横で、蒼真は空を仰ぎ、長い長いため息をついた。
「…………仕事が、増えた。」
口ではそう言いながら、その日から稽古の献立が二人分になっていたことを、女たちは見逃さなかった。
「知恵」の方の師は、高峻が務めることになった。
「逃げ足は蒼真殿に習ってください。私が教えるのは、逃げ道です。」
文官の講義は、城の見取り図から始まった。
人目のある廊下と、ない廊下。夜でも灯りの絶えない詰所の場所。
誰何されたら、誰の名を出すか。
文で助けを求めるなら、何と書けば偽物と疑われないか。
「一番大事なのは、これです。――怪しいと感じたら、その場で理由を探さないこと。理由は逃げてから、安全な場所で考えればよろしい。」
雨鈴は、帳面で鍛えた素っ気ない字で、一言も逃さず書き付けていった。
かくして、雨鈴の日々は一変した。
朝は礼法の稽古。
昼は裏庭で護身。
夕は高峻の講義。
合間に刺繍と読み書き。
夜、寝台に倒れ込む頃には、指の一本も動かしたくない。
「あ~~……もう、体がばらばらになりそう……」
「明日は、掴まれた時の続きからですからね。」
「翠華、あなた本当に楽しそうね?」
くたくたで、目が回って――なのに、不思議と気分は悪くなかった。
守られて、部屋で震えて待つだけだった頃より、ずっといい。
明日の自分は、今日の自分より、少しだけ逃げ足が速い。
それだけのことが、こんなに心強いなんて。
同じ頃、景辰は母の宮で、一枚の暦を挟んで蘭月と向き合っていた。
議題は、ただ一つ。父帝への、報告をいつにするか。
今上、黎玄淵。
息子たちが「景」の字を分け合うように、先帝の子らは「玄」の字を分け合った。
――その玄の字の兄弟たちの中から、玉座に座ったのが、あの父である。
「陛下はね、順と体裁の生き物よ。」
蘭月は暦の上に、白い指を滑らせた。
「話の中身より、話の持って行き方で機嫌が決まるの。……まず、朝議の忙しい時期は駄目。北の税の件が片付く頃合いまで待つこと。」
「……はい。」
「次に、場所。政務の席で切り出しては、政の話として値踏みされるわ。家の話は、家の場で。――月見の宴の、その夜がいいでしょう。宴が果てて、陛下が私室へ戻られるまでの、わずかな間。……あの方はね、酒が入ると、少しだけ人の親に戻られるの。夜が明けて酔いが抜ければ、また皇帝に戻ってしまうわ。」
「……相変わらず、恐ろしいことを仰る。」
「あら、褒めても何も出ないわよ。」
蘭月は扇を開き、ふふ、と笑った。
「それにね、景辰。案外、心配はいらないかもしれないわ。……あなた、陛下がずっと何を案じていらしたか、知っている?」
「……政局ですか?」
「あなたに、浮いた話が一つもないことよ。」
「…………」
「都の噂は、陛下のお耳にも届いているの。それはもう、あらぬ方向の噂までね。……だから『息子に春が来た』と知れば、相手の生まれなど、二の次で喜ばれるかもしれないわ。――たぶん。」
「たぶん、ですか。」
「たぶんよ。相手は陛下ですもの。」
母子は暦を睨み、やがて、一つの日付の上で指が止まった。
――月見の宴の、当夜。宴の果てた、その足で。
報告の刻が、決まった。
あとは、その夜の陛下の機嫌と……月見の宴そのものを、何事もなく越えられるかどうかだ。




