第四十四話:覚悟と難題
祝いの声がひとしきり収まると、景辰は皆を座らせ、居住まいを正した。
「浮かれる前に、話しておくことがある。……母上との相談の中身だ。」
部屋の空気が、すっと引き締まった。
「まず、市井の出の側室は、過去にも例がある。禁じられてはいない。母上も、側室ならば身分の壁は何とかなると言ってくださった。……問題は、入った後だ。」
景辰の説明は、母から聞いたままを飾らなかった。
側室の席次は、本来なら輿入れの順で決まる。
だが市井出身の女には、その決まりが、あってないものになるという。
「お前の後から家柄のいい娘が輿入れすれば、そのたびに、順はお前を追い越していく。一人入れば一段、二人入れば二段。誰も咎めない。それが『当たり前』とされているからだ。……気づけば、末席が定位置になる。その覚悟が要る、と母上は言っていた。」
翠華が痛ましげに目を伏せ、蒼楽ですら軽口を挟まない。
当の雨鈴だけが、あっけらかんと言った。
「それくらい、平気だわ。」
「……即答か。」
「席の順なんて、どうでもいいもの。私は――私の力を、あなたに正しく使ってもらって、この国を良くしてもらいたくて、ついてきたんだから。それができる場所にいられるなら、末席で十分よ。」
私の力。
その言葉に、景辰と翠華と蒼楽は、ごく自然に頷いた。
部屋の隅で、蒼真だけが、ひそかに胸を打たれていた。
(市井の目、ということか……。民の暮らしを知る目で、殿下の政を支えると。……立派な心がけだ)
彼だけが知らない事情は、今日も平和に誤解されていた。
「そうか。」
景辰は短く答え、それから続けた。
「ところでお前、さっき『お願いの一つ』と言ったな。……側室の件のほかにも、あるのか?」
「はい。」
雨鈴は、居住まいを正した。
「私に――自分で身を守る術を、身につけさせてください。」
「……ほう?」
「短剣でも、何でもいいんです。強くなりたいわけじゃありません。ただ、一人になった時に、せめて逃げ出せるだけの力と、知恵が欲しい。守ってもらうばかりじゃなくて、守ってもらうまでの時間を、自分で稼げるようになりたいんです。」
部屋が、静かになった。
毒を盛られ、宴に嵌められ、それでも出てきた言葉が「守ってくれ」ではなく「守られるまでを自分で保たせろ」とは。
(……守られて当然の顔をした貴族の娘とは、何もかも考えが違う)
(隣に立って、共に歩こうとなさっている)
(この方が……いつか正妃に、なれたなら)
家臣たちの胸に、口には出せない同じ願いが、静かに灯った。
末席が定位置と決まっている娘に、それを願うことの切なさごと。
「――承知した。」
景辰は、迷わなかった。
「なるべく早く、教えられる者を探す。腕が立つだけでは駄目だ。逃げ方と、時間の稼ぎ方を教えられる者――」
言いながら、その視線がちらりと部屋の隅をかすめた気がした。
蒼楽が、にやりと弟を見る。
蒼真は気づかぬふりで、まっすぐ前を向いていた。
話を終え、自室へ戻る回廊で、景辰は昨日の母とのやりとりの、続きを思い返していた。
――側室の件、身分の壁は、私が何とかしてあげる。ただしね、景辰。
あの時、母は扇を置いて、まっすぐにこちらを見た。
――そもそも、あなたの気持ちより、雨鈴さんの気持ちの方が、ずっと大事なのよ。あの子は元はと言えば、あなたのわがままでここにいるのでしょう?
――娶る名分ができても、それは器の話。あなた、あの子に愛されているの?心は、まだ手に入れていないでしょう?
――形だけ娶っては、駄目。それでは誰も幸せになれないわ。……ちょうど今日、すぐ近くの宮で起きたでしょう。心のない側室の座が、人をどうするか。
紅玉の、泣き崩れる姿が頭をよぎった。愛されぬまま座だけを抱えた女の、成れの果て。
――だからね、景辰。娶る前でも後でもいいの。あの子に、ちゃんと惚れてもらいなさい。
……惚れて、もらう。
先ほどの部屋では、あれは早くも、稽古は誰に習うのかしら、短剣ってどれくらいの重さかしら、と翠華相手に呑気な算段を立てていた。恋の「こ」の字も浮かんでいなさそうな、あの横顔に。
(……どうしたら、俺のことを、好いてもらえるのか)
毒の真相より、兄の腹の内より、よほど答えの見えない難題が、皇子の頭に、どっかりと居座ったのだった。




