第四十三話:同じ願い
ある決意を胸に、雨鈴は景辰の房を訪ねた。
が、あいにくの留守だった。蒼楽の姿もない。
急ぎの用で出た、としか侍従は知らないという。
拍子抜けした足で自室へ戻る途中、ふと思い立って、いつもの庭へ寄った。
――いた。
木立の下の定位置に、口元を布で覆った男が、当たり前のような顔で座っている。
「志遠さん。……昨日は、ありがとう。本当に助かったわ。それに――すごく、楽しかった。」
布の上の目が、にこりと笑った。
「それは良かった。大変な目に遭ったからね。気が紛れたなら、何よりだ。」
それから志遠は、こともなげに続けた。
「あの女は、離縁されたようだね。……これで君も、安心だな。」
「…………うん。」
返事の歯切れの悪さに、志遠が首を傾げる。
「どうした?」
「いや……私のせいで、一人の人の人生を、台無しにしちゃったなと思って。申し訳なくて。」
布の上の目が、はっきりと丸くなった。よほど予想の外の答えだったらしい。
「……君は、被害者なんだよ? 嵌められた側が、そんなことを考えなくていい。」
「分かってる。分かってるんだけど……」
煮え切らない返事のまま、会話が途切れた。
しん、とした空気に耐えかねて、雨鈴は無理やり話題を変えた。
「そ、それにしても志遠さんって、いつも神出鬼没よね。それにすごい情報通だし。どうやってその情報、手に入れてるの?」
「知りたい?」
「はい。」
「――君が俺と夫婦になれば、全部知れるよ。」
「……へ?」
思考が、三拍止まった。それから、顔に音を立てて熱が集まった。
「な、な、な……!」
「ははは。」
志遠は肩を揺らして笑った。
「まあ、知りたかったら、そういう手もあるということで。」
冗談。冗談に決まっている。決まっているのに、心の臓がまだうるさい。
志遠が腰を上げ、じゃあな、と踵を返しかけたところで、雨鈴は我に返った。
「あ、待って。これ。」
袖から取り出したのは、昨夜借りた、あの布だった。
「いつ会えるか分からないから、持ち歩いてたの。……まさか今日すぐ会えるとは、思わなかったけど。」
「ああ。……持っていてくれて、よかったのに。」
「あと、これは、お礼。」
続けて、もう一枚。真新しい布を差し出す。
「布なら、たくさんあっても困らないでしょ?その……なんだか、顔を隠さないといけないみたいだし。」
「……ありがとう。」
受け取った志遠が、布を広げる。その手が、ふと、止まった。
端のほうに、小さく、文字が縫い取られていた。――志遠、と。
「それね、下手だけど、今朝のお稽古で私が刺繍したやつなの。」
雨鈴は、にこりと笑った。
「名前が入ってれば、落としても戻ってくるよ。」
志遠は、しばらく、その二文字を見ていた。
「……大切に、する。」
短くそれだけ言うと、男は踵を返し、そのまま行ってしまった。
角を曲がる背中は、一度も振り返らなかった。
(……やっぱり、下手すぎたかな。そそくさと帰っちゃったし)
雨鈴は一人、首をひねった。
(まあ、いいわ。次は美味しいお菓子でも渡そう)
自室に戻ると、部屋の主より先に、客が待っていた。
「――遅かったな。」
景辰だった。戸口には翠華と蒼真、壁際には蒼楽まで控えている。
「すれ違いだったようだな。……で、お前は俺に、何の用があった。」
「え、あ、その……お願いが、あって。」
「そうか。」
景辰は頷いた。
「その願いは、全部聞こう。――だから、俺の話を先に聞いてくれないか。」
「え?」
様子が、おかしかった。景辰は立ち上がり、こちらへ向き直り、それから――言いよどんだ。
「単刀直入に言う。……その、なんだ。」
「……はい。」
「だから、その。」
「はい。」
あの景辰が、言葉を探している。嫌な予感と、妙な予感が、半分ずつ胸で膨らんでいく。
やがて男は、意を決したように、言った。
「――俺の、側室にならないか?」
「!!」
時が、止まった。
「い、いや、待て。お前には断る権利がある。これは命ではない。ただ、だな、客人の立場のままでは、お前を堂々と守る名分がなく、昨夜のようなことがまた起これば、その、つまり側室という座があれば義理も名分もこちらのものになり――」
「お受けします。」
「――は?」
ごちゃごちゃと続いていた理屈が、ぴたりと止まった。
「だから、お受けします。」
一拍の、沈黙。
「「「おめでとうございますーっ!」」」
部屋の隅から、歓声が爆ぜた。
蒼楽が手を叩き、翠華が目元を拭い、蒼真までもが生真面目に祝いの口上を述べている。
当の景辰だけが、まだ呆けた顔で立っていた。
「……本当に、いいのか?」
「実は……私も、同じことを考えていたんです。」
雨鈴は、まっすぐに景辰を見上げた。
「今日のお願いのひとつが、それでした。側室に、していただけませんかって。……守られるだけの客人のままじゃ、駄目だと思ったから。ただ――市井の女の身分で、それが許されるものなのかは、分からないのですけど。」
「その点については、考えている。」
景辰は、ようやくいつもの顔に戻って、ふ、と口の端を上げた。
「その相談のために――さきほどまで、母上の元へ行っていた。」




