第四十二話:兄の裁定
志遠の案内は、寸分の狂いもなかった。
裏の路地から店に戻ると、ちょうど主催者の締めの挨拶が終わり、客たちが散会し始めたところだった。人波に紛れ、雨鈴は布を外して、上座の紅玉の前へ進み出る。
「本日は、お招きにあずかりました。」
「あら……雨鈴様。楽しんでいただけまして?」
「――このような会だとは、驚きました。」
それだけを、綺麗な礼と共に返す。仮面の奥の目元が、すっと細められた。
「お気に召しましたのなら、次も、お呼びいたしますわね。」
雨鈴は答えず、微笑だけを残して店を出た。
帰りの車の中で、雨鈴は翠華と蒼真に事の顛末を話した。
「――というわけで、何もなかったの。本当に。ご飯食べて、絵本読んでただけ。」
「ご無事で、ようございました……」
翠華は胸を撫で下ろし、蒼真も強張っていた肩をようやく緩めた。
緩めながら――二人は、視線だけで会話をしていた。
「(……志遠、という男。翠華さんは、ご存じですか?)」
「(城で幾度か。ですが、素性は、何ひとつ)」
「(素性の知れない男が、あの店の裏道を知り尽くし、隠れ家を持ち、都合よく居合わせた……)」
「(ええ。……警戒は、しておくべきかと)」
布の下で静かに警戒を固める二人の心も知らず、当の雨鈴は窓の外を眺めながら、まったく別のことを考えていた。
(あ……借りた布、返すの忘れちゃった。次に会ったら、返さなきゃ)
宮に戻ると、蒼真はその足で景辰へ報告に上がった。
仮面の宴のこと。供が引き離されたこと。雨鈴が顔を晒して放り込まれたこと。そして――志遠なる男が、連れ出したこと。
「……志遠。また、その名か。」
低い呟きがひとつ落ち、それきり景辰は目を閉じた。開いた時には、迷いが消えていた。
「高峻。」
「は。」
「景明兄上に、至急お目通りを願い出よ。――今夜のうちにだ。」
命を受けた記室の文官が、廊下を走り去る。蒼楽が、珍しく慌てた。
「殿下、抗議に行くんですか?でも、立場上、その……相手方の側室のなさりようを、弟宮がどうこうとは。」
「無駄なのは、分かっている。」
景辰は立ち上がった。
「分かっているが――黙っていられるか!」
「殿下、冷静にですよ、冷静に!相手は、あの景明殿下なのですから。」
一呼吸。それから、低く。
「……ああ。」
目通りは、すぐに叶った。
「このような夜更けに、とは。緊急の用か、景辰?」
灯りの下、景明はいつもの余裕の笑みで弟を迎えた。
「兄上の側室の、紅玉殿のことで話があります。……あの方は、淫らな会を度々開いておられるようだ。今宵、うちの客である雨鈴も呼ばれ、危うい目に遭いました。会を開かれるのは兄上の宮のご自由。ですが――こちらに関わらせるのは、やめていただきたい。」
一瞬の、間。
「うちの側室がそうした会を開いていることは、把握している。」
景明の声は、変わらなかった。
「そなたの客に招きが行っていたこともな。……だが景辰。それを受けたのは、そちらだろう?」
「彼女は、そのような会だと知らなかった。よしんば知っていたとして、立場上、断れるはずがないでしょう。」
「ほう。なぜ、断れぬ?」
笑みが、深くなる。
「お前が囲っているとはいえ、所詮は客人の立場だろう?客人ならば、皇家の義理に縛られる筋はない。断ろうと思えば、いくらでも断れたはずだ。――これがお前の側室ならば、話は変わる。兄の宮の側室からの招きを、弟の側室が無下にはできんからな。断れぬというのは、そういう立場の者が言うことだ。」
「っ……」
痛いところを、正確に突いてくる。
断れないと感じたのは、あれの立場が、断れる客人と断れぬ身内の、どちらつかずの宙にあるからだ。
そしてそれは、そこに置いている自分の落ち度に他ならない。
「それにあの娘は、独り身であろう?火遊びのひとつ露見したところで、罪には問われんよ。醜聞にはなろうがな。」
「!」
何も、言い返せなかった。全て、正論だった。正論だけで、こちらの急所を全部押さえてくる。
「――だが、景辰。」
ふ、と声が柔らかくなった。
「お前の気持ちは、分かる。好いた女が騙された形であんな場に呼ばれれば、頭に血も上ろう。」
柔らかいまま、上からだった。怒鳴られるよりよほど、格の差を思い知らされる声だった。
「かわいい弟の抗議もあることだ。それに俺自身、あのような低俗な会を催す女に、未練はない。――離縁するとしよう。」
「!!あ、兄上、そこまでは。」
「何だ? お前が抗議しに来たのだろう?」
「私はただ、こちらに関わらぬよう、ご注意いただければと……」
「そんな注意ごとき、そなたの客への手出しを縛るものにはならんよ。」
その通りだった。ぐうの音も、出なかった。
「では、これで話は終わりだ。――今宵は安心して眠るがいい、景辰。」
帰りの廊下は、静かだった。
「……まさか、このようなことになるとは。」
蒼楽が呟き、高峻も頷いた。
「本当に、予想の外を行かれるお方ですね。」
景辰は眉をひそめたまま、低く吐き捨てた。
「……大きな借りが、できてしまった。」
翌日。第二皇子の後宮の一室に、悲鳴のような声が響いていた。
「景明さま!違うのです、どうか、どうかお許しください!」
床に泣き崩れる紅玉に、景明はどこまでも優しい声で言った。
「別に、あなたの趣味を否定するつもりはないよ。……これからは籍にも縛られず、思う存分、いろいろな殿方と楽しめるだろう?」
「わ、私が愛しているのは、景明さまだけです!私は場を貸していただけで、私自身は、淫らなことなど一度も……」
「そうか。だが、そういう会を開いていると皆に知られた女は、私の隣には、ふさわしくないのでね。……この席を望んでいる方は、他にいくらでもいる。」
「そんな……お見捨てに、ならないで……!わ、私は、ただ……!」
紅玉の声が、堰を切った。
「あの女が、憎かっただけなのです! 景明さまは、私たちには文のひとつも下さらないのに……あの市井の女には、部屋が埋まるほどの贈り物をなさったと聞いて……妬いて、妬いて、何がいけないのですか!」
「……なるほど。それが、理由か。」
景明は、優しい微笑を崩さぬまま、静かに立ち上がった。
「よく分かった。――話は終わりだ。」
嘆願は、聞き届けられなかった。
この離縁は、第二皇子の宮の内でも、大きな波紋を呼んだ。
「あの会は、ずいぶん前からのものだろう。景明様が、ご存じなかったはずがない。」
「ご存じどころか……あの会に集う口の軽さを、上手く聞き耳に使っておられたはずだ。」
「その益ごと、切り捨てられた。……紅玉様は、我らには見えぬ何かを踏んでしまわれたのだろうな。」
「まったく、頭のいいお方は、恐ろしい。」
――嫉妬の的を、間違えたのではない。触れてはならぬものに、触れたのだ。
そのことにだけは、紅玉は最後まで気づかなかった。
一連の報せを聞き終えて、景辰は執務房で独り、拳を握った。
客人。その一言で、こちらの盾は全部剥がされた。
名分のない場所に、あれを置いている限り、これからも同じことが起こる。
――このままでは、守り切れん。
そして同じ頃、噂の形で顛末を知った雨鈴もまた、自室で静かに顔を上げた。
私のせいで、人ひとりの首が飛んだ。景辰に、大きな借りを負わせた。
守られているだけの「客人」のままでは、駄目だ。
「……決めた。」
雨鈴は立ち上がり、まっすぐに、景辰の房へ向かった。




