第四十一話:隠れ家
案内された供の間に一歩入って、翠華と蒼真は、ぎょっと足を止めた。
広めの座敷には、先客が三十人ほど。誰も彼も、目元だけを残して、布で顔を覆っている。
供の間ですら、これだ。
「(……どういうことです、これは)」
「(俺が知りたい)」
ひそひそと囁き合っていると、人のよさそうな声が横から掛かった。
「おや、君たち、初めてかい?」
やはり布で顔を覆った、恰幅のいい男だった。
「悪いことは言わない、顔は隠しなよ。使用人の口ほど早いものはない。誰の供がここに来ていたか知れたら、主人の首が飛ぶ。」
なるほど、供の顔は主の名札というわけだ。
蒼真は任務柄、顔を見られたくない時のために常備している布を懐から二枚取り出し、一枚を翠華に渡した。
二人して手早く顔を覆う。
「話が早い。感心、感心。」
男は上機嫌で、聞いてもいないことを喋り出した。
「しかしまあ、今夜は当たりの回らしいよ。……何でも、あの第三皇子殿下がご溺愛の、市井の姫君も招かれているとか。こんな刺激的な火遊びはないって、うちの主人はもう、来る前からノリノリでねえ。」
布の下で、二人の顔から血の気が引いた。
「(……まずい。まずいですよ、翠華さん)」
「(ええ。ここに集うのは一定より上の身分の方ばかり……雨鈴様のお顔を、見知った方がいてもおかしくない)」
「(雨鈴様は、顔を隠せる物を何かお持ちですか?)」
「(いいえ……手巾では、長さが足りません)」
顔を晒した雨鈴が、この宴にいる。
それだけでも悪い噂の種になる。その上、相手は酒の入った男たちだ。
あの方にその気がなくとも、力ずくで迫られでもしたら――。
膨らむ心配とは裏腹に、供の間の戸は、丁重に、しかし固く閉ざされていた。
同じ頃、広間は熱を帯び始めていた。
扇の陰の囁き。女の腰へ回される手。男の肩へ預けられる髪。
仮面の下で、誰もが素性を脱ぎ捨てて、駆け引きに興じている。
その様子を上座から眺め、紅玉は仮面の下で笑みを深くした。
――いい夜。
あとは、あの顔を晒した娘が、この波に呑まれるだけ。
誰かの腕の中にいるところを、顔を見知った誰かが目に留めれば、噂は勝手に育っていく。
殿下の目を盗んで火遊びに興じる、ふしだらな市井の女、と。
失脚の時が、今から楽しみで仕方なかった。
……その娘の姿が、先ほどから広間のどこにも見えないことに、彼女はまだ、気づいていない。
その頃、当の雨鈴は、夕暮れの街を歩いていた。
店を抜けてすぐ、志遠は懐から予備の布を取り出し、ひょいと渡してきた。
「夕飯時だ。人通りが多い。……顔を隠しておけ。」
「用意がいいのね……」
言われるまま目元を残して覆えば、なるほど、誰ともすれ違い放題だった。
志遠は慣れた足取りで大通りを外れ、路地を二つ三つ折れて、奥まった一角で足を止めた。
小さな、けれど手入れの行き届いた家が、ひっそりと建っていた。
「……ここは?」
「俺の、隠れ家さ。」
布の上の目が、悪戯っぽく笑った。
中に入ると、年配の使用人が音もなく現れて、志遠の短い指示に頷いた。
灯りが入り、卓が整えられ、ほどなく、湯気の立つ膳が運ばれてくる。
白身魚の蒸し物に、青菜の炒め、蓮根の甘酢、土鍋の粥。
どれも市の匂いのする、飾らない品書きだった。
一口食べて、雨鈴は悲鳴を上げた。
「何これ!おいしい!おいしいんだけど!?」
「そうか。」
「何このお魚、ふわっふわなんだけど!? お城のご飯より断然おいしい! ねえ、これ作った方、天才!?」
「爺に伝えておこう。喜ぶ。」
夢中で箸を進めて、ふと、気づいた。志遠の前には、茶器がひとつあるきりだ。
「……志遠さんは、食べないの?」
「済ませてきた。」
「ふうん……。ね、前から思ってたんだけど、その布、お家でも外さないの?」
志遠は茶を一口含んで、少しだけ、間を置いた。
「――これは、そういう約束でね。」
「約束?誰と?」
「さて、誰とだったかな。」
するりと、かわされた。この人のかわし方は、いつも上手い。
上手すぎて、追いかける気を失くさせる。雨鈴は諦めて、蓮根に戻った。
膳が下げられると、志遠は奥から数冊の本を抱えてきた。
「退屈しのぎだ。時が来るまで、まだ間がある。」
卓に並べられたのは、どれも絵のたっぷり入った、易しい読み物だった。
市の物売りの一日を描いたもの。西の国の商人の旅の話。猫が主役の、他愛のない笑い話。
「これ、『市井百話』の続き!?私、あれ、もう三回読んだのよ!」
「知っている。」
「……何で知ってるのよ。」
「さて、何でだろうな。」
また、かわされた。けれど今度は、追いかけるのも忘れて頁をめくっていた。
それからの時間は、驚くほど早く流れた。
絵本の猫に笑い、物売りの絵に「この天秤棒の担ぎ方は嘘ね、本当はこう」と講釈を垂れ、志遠が「詳しいな」と笑い、幼い頃の市の話がぽろぽろとこぼれ、志遠は驚くほど聞き上手で――。
気がつけば、雨鈴は声を立てて笑っていた。
嵌められた夜のはずだった。評判を潰されかけた、最悪の夜のはずだった。
それなのに、湯気の立つ粥と、猫の絵本と、布の上の笑う目のせいで、今日はここ最近で、いちばん肩の力が抜けている。
「……ふふ。変なの。私、今、すっごく楽しい。」
「そうか。」
志遠は頬杖をついて、こちらを見ていた。
「――それは、何よりだ。」
灯りの下の、その目の色が、いつもより少しだけ静かなことに、頁をめくる雨鈴は気づかなかった。
やがて、置き時計代わりの線香が、短くなった。
「……さて。そろそろ、戻ろうか。君の面目を、立てに。」




