第四十話:仮面の宴
別れ際、明琳は何度も何度も、涙目で礼を言った。
何度目かで雨鈴が「もう数えきれません!」と笑うと、明琳も泣き笑いになった。
初めてできた友の力になれた――帰りの車の中、雨鈴は満ち足りた気分にずっと浸っていた。
戻るとその足で、約束通り麗妃へ報告に上がった。
「まあ、まあ、まあ! 上手くいったのね!」
蘭月は手を叩いて喜び、それから、にんまりと笑った。
「それで?雨鈴さん、すごーく頑張ったんでしょう?」
「い、いえ、私なんて。空回りしていただけで。」
「あら、謙遜。……そうだわ、第三者の目から見た話が聞きたいわね。そこの護衛さん、教えてくださる?」
水を向けられた蒼真は、生真面目に一部始終を述べた。
凍った場を何度も溶かしたこと。
話題が尽きても投げ込み続けたこと。席割りを機転で変えたこと。
……そして、殿下が観劇の間に婚約者どのの本音を聞き出し、助言をしていたこと。
「まあ。あの子が、人の恋路に?」
蘭月は目を丸くし、心底楽しそうに笑った。
帰り際、雨鈴は山ほどの礼の品を辞退し、押し付けられ、また辞退し、結局押し切られて退室した。
静かになった部屋で、蘭月はひとり、茶を含んで微笑んだ。
「……景辰にも、いい影響を与えているようね。」
翌日の午後、今度は景辰が母に呼び出された。
「此度は、ご苦労さま。明珠さんも、それは喜んでいたわ。……ねえ、あなた。楽しかった?」
「……どうでしょう。母上からの任でしたからね。」
「あらそう。」
蘭月は扇を開き、その陰で、にっこりした。
「なら、次は雨鈴さんと、二人で出遊してみたら?」
「は?」
「だって、おかしいでしょう。溺愛しているという噂の姫と、二人で出かけたことが一度もないなんて。ねえ、そう思わない?蒼楽。」
「はい、その通りでございます。」
にまにま笑いを隠しもせず、護衛が即答した。
「……余計なお世話です。」
母子の茶会は、息子の敗走で幕を閉じた。
その頃。稽古から自室へ戻った雨鈴を、一通の文が待っていた。
「第二皇子様の側室のお一人、紅玉様より……今夜、夕餉の席にお招きしたい、と。」
読み上げる翠華の眉が、深く寄った。今夜。あまりに急だ。しかも――。
「宮では、ございません。街の……外の店を、指定していらっしゃいます。」
「外?」
蒼真の肩が、目に見えて強張った。毒の一件から、まだ日も浅い。
だが差出人は皇子の側室、こちらは皇子の客人。断る口実は、ない。
「……行くしか、ないわね。」
急ぎの支度が、始まった。
夕刻、指定された店の前で、雨鈴は目を疑った。
立派な構えの店に、続々と客が入っていく。
身なりのいい令嬢、地位のありそうな男たち――その誰もが、薄布や仮面で、顔を隠している。
「な、何、これ……?」
戸口で、店の者ににこやかに遮られた。
「お付きの方々は、どうぞこちらの間で夕餉をお楽しみください。」
「お待ちを。私は毒見としてお側に。」
「毒見は当方でご用意しております。お客様に所縁の方々を、万一にも危険な目に遭わせるわけには参りませんので。」
完璧に丁寧で、完璧に取り付く島のない口上だった。
翠華と蒼真は、あれよという間に別室へ分けられてしまう。
意を決して広間へ入る。ほどなく、上座で仮面の女が挨拶を始めた。
声の調子からして、あれが紅玉らしい。口上が終わると――広間の空気が、ふわりと砕けた。
男も女も、入り交じって、扇の陰で笑い合っている。初対面同士が、驚くほどの近さで。
(何なの、この集まり……!?)
呆気に取られる間もなく、仮面の男が一人、杯を手に近づいてきた。
「これは、麗しい方だ。お顔を隠されないとは、余程の自信と見える。一献いかがです?」
「い、いえ、私は、その…」
愛想笑いでかわそうにも、退けば別の男が現れる。
壁際に追われ、逃げ場が薄くなっていく。なんなのよ、これ――!
その時だった。
「――失礼。この方は、次に私と話す約束をしているのでね。」
横から伸びた手が、雨鈴の手を取った。
男たちが不服そうに退くのも構わず、その誰かは人波を縫って、するりと広間の隅へ雨鈴を連れ出した。
「あ、ありがとうございま……」
礼を言いかけて、気づいた。口元の、布。
「……志遠さん!?」
「やあ。奇遇だな、雨鈴。」
この場では、彼の覆いは少しも目立たなかった。むしろ誰より馴染んでいる。
「これ、どういうこと?この集まりは何?私、夕餉って聞いて。」
「ふむ」
志遠は広間を一瞥し、こともなげに言った。
「――どうやら君は、嵌められたんだろうね。」
「は、嵌め……!?」
志遠の説明は、簡潔だった。
紅玉は定期的にこうした宴を開いている。
場所も日取りも当日にしか報されない。
仮面のおかげで素性を明かさず火遊びが楽しめるとあって、既婚独身を問わず大人気。
伝手を辿ってでも潜り込みたがる者が後を絶たないという。
「そして君は、顔を隠すことも知らされずに放り込まれた。……仮面の男たちと親しげにする姿を衆目に晒して、『殿下の目を盗んで男遊びをする、ふしだらな女』の絵を作りたかったんだろう。」
唖然とした。体に触れもせず、毒も盛らず、評判だけを殺す手口。
……と、そこでふと、疑問がよぎった。この人、なんでここにいるの。ということは、まさか、そういう趣味が。
じり、と半歩引くと、志遠は目を丸くして――それから、声を上げて笑った。
「はっはっは!違う違う。一定より上の身分の男には、毎回、誘いの文が来るんだよ。……今回の文にはね、『雨鈴様もお見えになります』と書いてあった。だから、来た。」
「っ、人をダシに使って……!」
怒りながら、どこか物陰に隠れてやり過ごそうかと算段を始めた雨鈴の手を、志遠がまた、ひょいと取った。
「隠れるより、いい手がある。――ここから、逃げ出そう。」
「え!?」
「この店のことは、よく知っている。しばらく風にあたって、頃合いに戻ればいい。帰り際に紅玉様へきちんと挨拶をして『確かに最後までおりました』という顔さえ作れば、君の面目は立つ。妙な絵を描かれる暇も与えない。……さ、行こう。」
言うが早いか、志遠は人波の陰を選んで歩き出す。
引かれる手の強さは、先ほど男たちから連れ出してくれた時と、同じだった。
こうして雨鈴は、仮面の宴から、まんまと連れ出されたのだった。




