第五話:一週間後の景辰
翌朝、翠華に案内されて景辰の部屋へ向かった。
廊下を歩きながら、昨日の男のことを考える。
志遠。
名乗っていないのに、名前を知っていた。
景辰の見舞いに行くと言っていた。
その男が今、景辰の部屋にいるかもしれない。
そう思い、少しだけ気を引き締める。
「殿下、雨鈴さまをお連れしました。」
翠華が静かに声をかける。
「入れ。」
低い声が返ってきた。
昨夜より、ずっと力がある。
扉を開けると、景辰が寝台の上で上体を起こしていた。
顔色はまだ悪いが、目の鋭さは戻っている。
傍らには医師らしき人物が控えていたが、雨鈴が入ると静かに下がった。
「……思ったより元気そうね。」
「思ったより?」
「もっとぐったりしてると思ってた。」
「ハッ。そんな軟ではない。」
「どうだか。」
景辰はわずかに目を細めた。
雨鈴は向かいに腰を下ろし、少しだけ間を置いた。
「景辰。昨日、廊下で志遠という人に声をかけられたよ。」
「志遠?」
「景辰と古い付き合いだって言っていたわ。見舞いに行くとも。」
景辰の目が、わずかに動いた。
「知らないな。」
「知らない?」
「古い付き合いと言える志遠という人間に、心当たりがない。」
短く、はっきりと言い切る。
雨鈴は昨日の光景を思い出した。
柔和な顔立ち。穏やかな笑み。
そして、名乗っていないのに名前を知っていたあの瞬間。
「その男、私の名前を知っていたの。名乗る前に。」
沈黙が落ちた。
景辰の目が、一段階だけ鋭くなる。
「どんな男だ。」
「年は景辰と同じくらい。柔和な顔で、衣は豪華でびっくりした。ここではみんなそうかもしれないけれど。」
「……。」
景辰は何かを考えるように視線を落とした。
その沈黙が、妙に重かった。
やがて、短く言う。
「まあ、とにかく気をつけろ。」
「それだけ?」
「今は、それだけだ。」
理由を言わない。
でも「知らない」と言いながら、少し思い当たっている顔だった。
雨鈴はそれ以上聞かなかった。
聞いても、今は答えないだろう。
しばらく沈黙が続いた後、景辰が口を開いた。
「一つ頼みたいことがある。」
「何?」
「俺を視てほしい。一週間後だ。」
雨鈴は少し考えた。
「一週間後、動けるようになる頃を確認したいってこと?」
「ああ。安静の間に何が動くか、動けるようになった時に何が待っているか。知っておきたい。少し先だが視れるか?」
「視ようと思えば、どの期間でも。ただ、一日に視える時間は限られているけど。」
「ほう、制限はあるのか?」
「一日で、五分間分だけ視えるかな。普段の占いでは1人に対して10秒ほど視てたわ。」
景辰の目がわずかに動き、その情報を秤にかけるように沈黙が落ちる。
「時間そのものではなく、“合計”か。」
「そうよ。」
「そもそも誰が相手でも視えるのか?」
「会ったことがある人なら。」
「面白いな。」
それは興味というより観察の言葉だった。
ひとつの現象を静かに分解しようとするような視線に、居心地の悪さが背中を這う。
「では、出来る限り見てくれ。」
「……分かった。」
目を閉じる。
意識を沈める。
景辰という人間へ、意識を向ける。
一週間後。
暗がりの中に、光が差し込むように映像が流れてくる。
場所は石造りの廊下だ。
昼の光が差し込んでいるが、人の気配が少ない。
張り詰めた空気がある。
景辰がいる。
その周囲を、兵士たちが固めている。
廊下の奥から、足音が響いてくる。
荒い呼吸と共に、誰かが走ってくる。
男だ。
衣は乱れ、足取りも不安定だ。
その腕から、血が流れている。
男は景辰の姿を見つけた瞬間、目の色を変えた。
迷いなく距離を詰めてくる。
その動きには、明確な殺意があった。
袖の内から抜き放たれた刃が、一直線に景辰の喉元を狙う。
兵士が割り込む。
刃が、男の腕を捉える。
血が、床に広がる。
そして景辰は、無傷のままそこに立っていた。
ただ、動かずに。
まるで、最初からこうなると知っていたように。
映像が途切れる。
「っ……」
息を吸う。
心臓が嫌な速さで鳴っている。
「どうだ。」
景辰の声が、すぐそこにある。
「一週間後、あなたは廊下で襲われる。」
「場所は?」
「石造りの廊下。人が少なかった。」
「男の特徴は?」
「衣が乱れていた。腕から血が出ていて……逃げながら、あなたを見た瞬間に向かってきた。」
「向かってきた?」
「追われていたのに。あなたを見た瞬間に、目の色が変わった。」
景辰は少しの間、黙っていた。
「俺はどうなった?」
「怪我はしていなかったけど。」
「けど?」
「あなた、ただ動かずに見てた。」
沈黙が落ちる。
雨鈴は景辰を見た。
景辰は口元に笑みを浮かべて言う。
「一週間後が楽しみだな。」
呆れる。一度経験したのに、また再び確かめるのか。
でも今更、驚かない。
「お前も一週間、気をつけて過ごせよ。」
「私が?」
「志遠という訳の分からぬ男が、お前の名前を知っていた。」
景辰の目が、こちらを真っ直ぐに見ている。
「……それが?」
「他の者もお前のことを探りに来るかもしれない。俺の客だからな。」
「噓でしょ。」
「だから気をつけろと言っている。」
雨鈴は息を吐いた。
景辰は一週間動けない。
志遠という正体不明の男が、城の中にいる。
他の者も接触してくるかもしれない。
「翠華から離れるな。廊下を一人で歩くな。」
「はいはい。」
「返事が軽い。」
「分かってるから。」
景辰はじろりと見たが、それ以上は言わなかった。
部屋を出る時、雨鈴は一度だけ振り返った。
景辰が寝台の上で目を閉じている。
傷を負って、それでも何かを考え続けている顔だった。
(一週間後、あの廊下で待っているものを、この人はもう知っている。)
知った上で、動かずに見るつもりでいる。
(……本当に、厄介な人。)
扉を閉めながら、小さく呟いた。
でも廊下を歩き出した足は、不思議と迷わなかった。
一週間。
景辰が動けない間に、志遠という男のことを少しでも知っておく必要がある。
自分にできることを、自分でやる。
それが今の、唯一の答えだった。




