第三十八話:出遊の誘い
七日後というのは、思っているより、ずっと近い。
善は急げと、その日の夜のうちに、雨鈴は景辰の房を訪ねた。
訪ねたはいいが、扉の前で四半刻ほど、行ったり来たりした。
誘うだけだ。ただ、誘うだけ。なのに、なぜこんなに敷居が高いのか。
「……入れ。廊下がうるさい。」
中から声がして、観念して扉をくぐった。
景辰は書類の山の向こうにいて、隅には蒼楽が控えている。
「あ、あのね。お願いというか、その、相談があって。」
「何だ、言え。」
「こ、今度……明琳様と、その婚約者の子謙様と、四人で……じゃなくて、皆で、出かけたいなと思っていて。それで、その。」
我ながら、しどろもどろにも程があった。景辰は書類から顔も上げずに、あっさりと頷いた。
「ああ、構わん。楽しんでこい。」
「……そ、そうじゃなくて。」
「ん?」
「け、景辰も、一緒に……」
筆が、止まった。
一瞬の間。それから景辰は顔を上げ、ゆっくりと、実にゆっくりと、口の端を持ち上げた。
「――何だ、お前。」
嫌な予感がした。
「そんなに俺に会えなくて、寂しかったのか?言えば、時間くらい作ってやったものを。」
「なっ……そ、そうじゃなくて!これは明琳様のためで、別に私は……!」
「ならば、俺が一緒に行く必要は、ないだろう。」
「むっ……む、むむ……」
正論の顔をした意地悪だった。
行ってほしい。
でも「寂しかった」は認めたくない。
認めたら負けだ。何の勝負かは分からないが、負けは負けだ。
言葉に詰まって唸っていると――部屋の隅から、限界を迎えた音がした。
「……っ、ぶ、あっはっはっはっは!」
蒼楽が、腹を抱えて爆笑していた。
「ちょ、蒼楽!?」
「いやいや、すいません、すいません……あんまりな茶番で、おかしくて。」
「茶番?」
雨鈴がきょとんとすると、蒼楽は目尻の涙を拭いながら続けた。
「殿下はねえ、雨鈴ちゃん。しーっかり、一緒に行きますよ。麗妃様から『くれぐれも助けにおなりなさい。日程も調整なさい』って、とっくの昔に連絡が来てますから。」
「…………は?」
部屋が、静まった。
つまり。この男は。全部知っていて。
知った上で。私がしどろもどろで誘うのを。
顔に、音を立てて火がついた。
「もう――さいてー!!」
「お前は本当に、からかいがいがあるな。」
悪びれもせずニヤリと笑う顔に、雨鈴は言葉にならない声を上げ、身を翻して部屋を飛び出した。
恥ずかしいやら悔しいやら、もう何が何だか分からなかった。
残された部屋で、初仕事以来ずっと無表情を保っていた蒼真が、呆然と呟いた。
「……殿下に、あんな一面があるなんて。」
「どうしても見たかったんだよ、殿下は。」
蒼楽が小声で、けたけた笑いながら耳打ちする。
「雨鈴ちゃんが、どんな風に誘ってくれるか、さあ。」
「……そういう、ものですか?」
「そういうもんなの。」
腑に落ちない顔のまま、蒼真は我に返り、慌てて護衛対象の後を追った。
「ホント、あの皇子、信じられない!人をおちょくって楽しむなんて、性格最悪よ!」
夜の廊下を大股で歩きながら、雨鈴は追いついた蒼真に向かって存分に愚痴った。
護衛は少し考えてから、生真面目に答えた。
「……俺は、殿下のあんな人間らしいところ、初めて見ましたよ。」
「え?」
「いつも冷静沈着で、どちらかというと、こう……他人に、踏み込まない方です。踏み込ませもしない。禁軍でも、そういう評判です。」
「……え?そうなの?」
思わず足が止まった。
人をおちょくって、ニヤニヤ笑って、簪を没収するだの言い出す、あの男が?
蒼真は大真面目に頷いた。
雨鈴は廊下の先を見つめ、それから、なぜだか妙に落ち着かなくなって、歩調を速めた。
一方、景辰の房。
「いや~、殿下は雨鈴ちゃんと絡むと、人間味があふれていいですねえ。蒼真なんか、唖然としてましたよ」
「……別に。お前たちといる時と、変わらん。」
「へえ?」
「変わらん。」
咳払いがひとつ。書類をめくる音が、妙に大きく響いた。蒼楽は何も言わず、にやにやと主の耳の縁を眺めていた。
翌日の昼、雨鈴の部屋に届け物があった。
箱を開ければ、出遊のためのものだろう、動きやすい仕立ての衣が一揃いと、揃いの帯や飾り。
またか、と呆れかけた、その横に――小さな包みが、二つ。
開けて、雨鈴は固まった。
胡桃の餅と、揚げたての胡麻団子。
いつかの夜、二人きりの妙な問答で答えた、あれだ。覚えていたのか。
あの男が。菓子は甘いのが苦手なくせに。
「…………これで許すとは、思わないでよね。」
誰にともなく言い訳をして、餅にかぶりつく。
言葉とは裏腹に、胸の奥には、湯気のように温かいものが流れていた。




