第三十七話:未の刻の呼び出し
茶会から数日、雨鈴はすこぶる機嫌のいい日々を送っていた。
明琳と瑞葉からは、さっそく文が届いた。他愛のない、本当に他愛のない中身だった。
庭の花が咲いたとか、瑞葉の家の猫が肥えたとか。その他愛のなさが、嬉しくてたまらなかった。
機嫌がいいと、何もかもがうまく回る。日課に組み込まれた「殿下にふさわしい振る舞い」の稽古――歩き方、座り方、盃の受け方、目上への口の利き方――も、このところは翠華に叱られる回数が目に見えて減っていた。
「殿下がご覧になったら、さぞ驚かれましょうに。」
「その殿下、最近ぜんぜん来ないじゃない。」
政務が立て込んでいるらしく、景辰が顔を見せない日が、もう四日続いていた。
別に、寂しいわけではない。ないったら、ない。
そんな五日目の朝、雨鈴の元へ一人の使いが訪れた。
差し出された文の封の印を見て、翠華の背筋が音を立てそうな勢いで伸びる。
「――麗妃様より、にございます。」
麗妃。景辰の、母君。
脳裏に浮かんだのは、いつかの夜の、香の焚かれた部屋だった。
楽しげに人をからかい、かわし方ごとこちらの奥を見抜いてしまった、あの人。
(……蘭月様!)
あの夜は名も告げぬ忍びの茶会だったのに、今度は正式な召しときた。
文面は、記憶の中の声と同じで、拍子抜けするほど柔らかかった。
曰く、明日の未の刻、茶を一緒にいかが。少し、相談したいこともあるの――。
「そ、相談??あの方が?私に?」
「理由はともかく、これは辞退のできないお召しです。それに前回と違い、こたびは正面からのお召し……作法を検分されると思し召せ。雨鈴様、今夜は寝かせませんよ。」
翠華の目が、稽古の鬼のそれになった。
当日、未の刻。
指定された離れの一室には、二人の女性がいた。
一人は、上座の蘭月。記憶のままの人だった。
目が楽しげに笑い、その笑いの奥で、こちらの何もかもを静かに見ている。
「――また会えたわね、雨鈴さん。」
「ご無沙汰しております、蘭月様。」
「様はいらないと言ったのに。」
「……ご無沙汰しております、蘭月様。」
「ふふ。相変わらずね。」
そしてもう一人、蘭月と同じ年頃の、柔らかな美しい女性が、やりとりを微笑ましそうに眺めている。
「こちらは、沈家の明珠さん。私の古いお友達で――あなたが先日お邪魔した、明琳の母君よ。」
雨鈴は、改めて背筋を伸ばした。習った通りの角度で、習った通りの礼をする。
「先日は、明琳様に大変よくしていただきました。娘同士、末永く仲良くしていただけましたら、これほど嬉しいことはございません。」
……言えた。噛まずに、言えた。
「あらあら、ご丁寧に。こちらこそ、明琳ったらあなたのお話ばかりで。」
明珠がころころと笑う。その横で蘭月が、扇の陰からこちらを眺めて、目を細めた。
「それにしても……ずいぶん、姫らしい礼を覚えたのねえ。あの夜の、するする言い返してくる子の方が、私は好きだったけれど。」
「ら、蘭月様……!」
徹夜の稽古を、一言で。この方は本当に、相変わらずだった。
「ふふ、冗談よ。よく励んだこと。……それから、先の一件では大変だったわね。怖い思いをしたでしょう。」
「いえ……あの、その節は、春燕様たちをお貸しくださって、ありがとうございました。おかげさまで、守っていただきました。」
「いいのよ。あなたが無事で、何より。……息子も、少しは役に立ったかしら?」
「そ、それは、その。」
「ふうん?」
楽しげな目に映る自分の顔が、赤くなっていないことを祈るしかなかった。
茶が替わり、菓子が回り、他愛のない話が一巡りしたところで――明珠が、そっと茶碗を置いた。
「実は今日は、雨鈴さんに、折り入ってお願いがあって。」
話は、明琳とその婚約者・子謙のことだった。
「茶会で、幼馴染だと聞いていらっしゃるでしょう。それは本当。ただね……あの子たち、ここ数年は一度も会えていないの。子謙どのの家が任地へ移って、ずっと、文だけのやりとりで。」
文で育った恋。茶会で明琳が「文になると急に堅苦しくて」と笑っていたのは、そういうことだったのか。
「それがちょうど七日後、子謙どのがお勤めの関係で、こちらへ来ることになって。……喜ぶかと思ったら、あの子、すっかり怯えてしまって。」
「怯えて……?」
「久しぶりすぎるのよ。文の中では言えたことも、顔を見たら言えるかどうか。会って、がっかりされたらどうしよう――ですって。」
分かる、と雨鈴は思った。会えない時間は、想いも育てるが、怖さも育てる。
「それだけなら、笑って背中を押せば済む話なのだけれど……間の悪いことに、妙な噂が聞こえてきてね。」
明珠の声が、少し落ちた。
「子謙どのには、よそに、心から愛する想い人がいるらしい――と」
「……!」
「周りはでたらめだと宥めたわ。文を読めば、あの子への想いは疑いようがないもの。でも、当の明琳は、噂を聞いてから、ますます会うのが怖くなってしまって。」
初めての友が、そんな気持ちを一人で抱えていたなんて。
文には、猫が肥えたことしか書いていなかったのに。
「それでね、雨鈴さん。」
明珠は居住まいを正し、まっすぐにこちらを見た。
「あなたと景辰殿下もご一緒に、四人で連れ立って、出遊してはくださらないかしら。二人きりでは、あの子、きっと逃げてしまう。お友達が隣にいてくれたら――」
「やります。」
考えるより先に、声が出ていた。明珠と麗妃が、目を丸くする。
「あ……で、出過ぎたことを。ですが、明琳様のお力になれるなら、ぜひ。」
「……ふふ。ね、明珠さん。言った通りの子でしょう。」
蘭月が、声を立てて笑った。
相談はとんとんと進んだ。母から言われたと知れば明琳は却って構えてしまう。
だからこの話は、雨鈴からの誘いということにする。
――私も子謙様にお会いしてみたい、皆でどこかへ出かけませんか、と。
「では、そのように文を書きます。……あの。」
帰り際、雨鈴はふと足を止めた。今さらのように、大事なことに気づいたのだ。
四人で、出遊。ということは。
(……これ、私から景辰を誘うってこと、じゃない!?)
未の刻の空は良く晴れていたが、雨鈴の頭の中には、早くも次の難題が立ち込めていた。




