第三十六話:はじめての茶会
茶会の当日、雨鈴は景辰の揃えた一式に袖を通した。
薄紅の襦裙に、銀糸の帯。玉の耳飾り。小箱に並んだ何本もの新しい簪を前に、さんざん迷って――結局、髪に挿したのは、見慣れた月の簪だった。
「……あら。新しいのになさらないので?」
「い、いいのよ、これで。一番、馴染んでるから。」
「さようでございますか。」
翠華は、それはそれは嬉しそうに笑った。何よ、その顔。
沈家の邸は、街の北の静かな一角にあった。
門の前で車を降り、招かれた令嬢たちの列に続く。
三歩後ろには、今日も不服の旗――は、半分ほどに縮んだ蒼真が付いている。
と、前を歩いていた令嬢の袖から、ひらりと白いものが落ちた。手巾だ。
雨鈴が拾って駆け寄ろうとすると、横から手が伸びて、先に手巾を攫った。
「――おれが行きます。」
「え、いいのに、それくらい。」
「見知らぬ相手に、雨鈴さまを近づけるわけにはいかないので。」
言うが早いか、蒼真は大股に令嬢へ追いつき、ぶっきらぼうに声をかけた。
「これ、落としましたよ。」
「え? ……まあ、ありがとうございます。」
振り向いた令嬢の頭で、簪が揺れた。銀細工に、小さな青玉。
「あ。その簪――」
蒼真が思わず言いかけた、その時。令嬢の視線が、彼の後ろへ流れた。
目が、まんまるになる。
「……あ! あの時の……!」
令嬢は、瑞葉と名乗った。
「あの日は、本当にありがとうございました。お名前も伺えないままで、ずっと心残りで……まさか、こちらでお会いできるなんて。」
「私こそ。……ふふ、挿してくださってるんですね、それ。」
「はい! あれから毎日のように。」
頬を染めて簪に触れる瑞葉の隣で、蒼真だけが複雑な顔をしていた。
おれが選んだやつ、と言いたいのを飲み込んでいる顔だった。
やがて席が整い、主催の明琳が挨拶に回ってきた。歳の頃は雨鈴と同じ、よく笑う目をした娘だった。
「雨鈴様、ようこそ! お会いしたかったんです。……あら、瑞葉様、もう知り合いになったの?」
「それが明琳様、聞いてくださいな。」
瑞葉が簪の一件を話すと、明琳は目を丸くして、それから花が咲くように笑った。
「そんな出会いが! まあ、素敵。……ではもう、私たち三人、お友達ということでよろしいわね?」
こういうことを、まっすぐ言える人らしかった。敵ばかりの城で、初めて聞く種類の言葉に、雨鈴は少しだけ泣きそうになったのを、笑顔でごまかした。
茶が回れば、年頃の娘の話題は、決まって一つところへ流れ着く。
「それで明琳様、ご婚約者様とは、その後いかがですの?」
「ふふ。先日、文をいただいたわ。幼馴染だから今さらなのだけど、文になると急に堅苦しくて、それがおかしくて」
「よろしいわねえ……。わたくしはまだ婚約者もおりませんもの。明琳様も、雨鈴様も、うらやましい。」
「わ、私は別に、そういうのでは。」
「まあ、ご謙遜を。その御衣装、殿下がお誂えになったのでしょう?今日いらした皆様、すれ違いざまに、その話ばかりでしてよ。」
噂は、贈り物の目録より速く届いているらしかった。
そして話題は、自然と、皇子たちの妻の話へ移っていった。雨鈴にとっては、初めて聞く話ばかりだった。
「第一皇子様は、五人の側室様がいらして……正妃様をお持ちなのは、皇子様方で景恒様おひとりよ。ご寵愛は、もっぱら紫蘭様。ほら、先日の……」
「第二皇子様は、側室様が十人ですって。」
「じゅ、十人!?」
「お家との繋がりを大切になさる方だから。それにあの通りお優しいお人柄で、皇帝候補の筆頭でしょう? 今も縁談が絶えないそうよ。」
へえ、と雨鈴は相槌を打った。会ったこともない第二皇子の話は、市の噂と同じくらい遠かった。
「それで、その……景辰様は」
瑞葉が、ちらりとこちらを見ながら切り出した。
「これまで、浮いたお話がまったくなくて。側室候補の姫君は大勢いらしたのに、一度も首を縦に振られなかったの。皇帝陛下もご心配なさって……その、巷では、殿方がお好きなのではと。」
「ぶっ」
噴き出した。噴き出してから、慌てて口を押さえた。
「で、ですから、雨鈴様へのご寵愛ぶりを皆が見聞きして、ああ、お目が厳しかっただけなのですね、って。」
「そうそう。都中の姫君が泣いたお目に適ったのですもの。ねえ、どこを見初められましたの?」
「え、えっと、それは、その……」
返答に、詰まった。台本にない問いは、いつだって一番難しい。
「あとは、第四皇子様が今年十四におなりで、妃候補をお探しの最中。第五皇子様は母君が高いお家柄の御方だから、もうご婚約者がお決まりで――」
娘たちの噂話は、綾のように続いていく。
それを聞き流しながら、雨鈴は、ふと気づいた。
――景辰に側室も、想い人も、いない。
その話を聞いた瞬間、胸のどこかが、ほっと緩んだことに。
(……って、何を考えてるのよ、私は!)
慌てて茶を含む。ぬるくなった茶は、それでもなぜか、甘かった。




