第三十五話:新しい護衛
毒の一件が落着し、麗妃から借りていた三人――春燕、厳鋭、文修は、丁重な礼と共に母の宮へ返された。
「……で、だ。」
その日の夜、景辰は蒼楽と向き合っていた。
「厳鋭殿が抜けた穴を、どう埋める。雨鈴を狙った者の親玉は、まだ捕まっていない。護衛なしには、しておけん。」
「ですよねえ。俺は殿下から離れられないし……あ!」
蒼楽が、ぽんと手を打った。
「うちの弟、どうです?」
「弟?」
「蒼真っていうんですけどね。歳は十八。腕は――まあ、悔しいですけど、あの歳の頃の俺より立ちます。禁軍の武比べで、去年、上から三番目に入りました。」
「……その腕なら、文句はないが。」
「ただし、問題がふたつ。」
蒼楽は指を二本、立てた。
「ひとつ。あいつ、いずれは禁軍を率いる将になる、ってのが口癖でして。千の兵の先頭で戦う気でいる男に、姫君ひとりの護衛は――本人、確実に嫌がります。」
「ふたつ目は?」
「性根が、攻めなんですよ。斬り込むのは天才的ですけど、守って耐えるってのを知らない。……けど殿下、だからこそです。人ひとりを守り抜く仕事ってのは、千人で攻めるより難しい。将になりたいなら、あれに一番足りないのは、これです。」
兄の顔で言う蒼楽に、景辰は少し考えて、頷いた。
「いいだろう。……嫌がる分は、どうする?」
「そこは、殿下の強いご命令で。」
一方、雨鈴の日常は、ようやく元の形を取り戻しつつあった。
翠華が世話役に復帰した。
まだ本調子ではないはずなのに、髪の結い方も、小言の切れ味も、寸分違わず戻ってきた。
その小言が、こんなに嬉しいものだとは思わなかった。
そして机の上には、返事を待たせたままだった一通の文。――沈家の明琳の、茶会の誘い。
「……行くわ。この茶会。」
「ようございますとも。」
翠華は、我がことのように頷いた。
「敵ばかりの城で、初めての、敵でないお茶会です。……となれば、雨鈴様。装いを整えませんと。髪飾りのひとつも新しくして、気分ごと替えてしまいましょう。街へ、見に参りましょうか・」
街。その一言だけで、胸のあたりが軽くなった。
さっそく景辰に報告に行くと、皇子は書類から顔を上げ、なぜか、にやりとした。
「街だと? ――ちょうどいい。」
「え?」
「明日から、お前に新しい護衛が付く。蒼楽の弟だ。顔合わせついでに、連れて行け。」
翌日、宮の門前で引き合わされた蒼真は、兄とはあまり似ていなかった。
上背があり、目つきが鋭く、そして――全身から「不服です」と書いた旗が立っていた。
「……蒼真です。以後、お見知りおきを。」
礼は正しい。正しいが、声が完全に死んでいる。
道中もそうだった。三歩後ろを付いてくる足音は正確そのもので、視線は絶えず通りを警戒している。仕事は完璧だ。ただ、話しかけると「は」「いえ」「問題ありません」の三種類しか返ってこない。
「(……嫌われてる?)」
「(いえ、雨鈴様。あれは仕事が嫌なだけです。放っておきなさいませ。)」
装身具の店は、街の大通りにあった。
翠華と二人、あれでもないこれでもないと選んで、最後に二つが残った。
銀細工に小さな青玉の下がる簪と、珊瑚の赤い歩揺。
「うーん……決められない。ねえ、蒼真。」
店の入り口で仁王立ちしていた護衛は、名を呼ばれてぎょっとした。
「どっちがいいと思う? これと、これ。」
「……は? んなの、どうでも――」
言いかけた首が、ぎ、と音を立てて止まった。
翠華が、笑顔のまま睨んでいた。目だけが、まったく笑っていない笑顔だった。
「…………右」
蒼真は、観念したように言った。
「青いほう。……そちらの方が、目の色に映える。それに歩揺は歩くたびに鳴る。護衛の身からすると、居場所を報せながら歩くようなものなので、お勧めしません。」
一瞬の沈黙のあと、雨鈴と翠華は顔を見合わせた。
「……すごい。ちゃんとした理由が、二つも。」
「決めた。これにするわ。」
棚に残っていたのは、その一本きり。雨鈴が手を伸ばした――まさに、その時だった。
横から、白い手が、同じ簪に伸びた。
「あ。」
「……あ。」
指先と指先が、簪を挟んで止まる。伸ばした主は、雨鈴と同じ年頃の令嬢だった。
上品な身なりに、困ったような眉。
「も、申し訳ございません。お先にお手に取られたのは、そちら様で……」
「いえ、あの、私こそ。」
令嬢の視線が、名残惜しそうに、ほんの一瞬だけ簪へ落ちた。それで、十分だった。
雨鈴は簪をそっと取り上げ――令嬢の手に、載せた。
「お先に、どうぞ。」
「え……で、ですが。」
「きっと、お似合いです。その襟の色に、この青、映えますもの。」
迷いのない笑顔に、令嬢は頬を染め、何度も礼を言って、大切そうに簪を胸に抱えた。
会計の間も、店を出る間際も、振り返っては頭を下げていった。
「……よろしかったのですか。お気に召していらしたのに。」
「いいの。あの方の『欲しい』の顔、見ちゃったから。」
帰り道、結局手ぶらの雨鈴の三歩後ろで、不服の旗を立てていた男が、ぼそりと呟いた。
「……なんだよ。せっかく、似合ってたのに。」
「え?今、何か言った?」
「――いえ。何も。」
蒼真は前を向いたまま、耳の先だけを赤くして黙り込んだ。
雨鈴と翠華は顔を見合わせ、笑いを噛み殺した。
初仕事の目利きは他人の頭に渡ったが、この護衛、案外、悪い男ではないらしい。
その夜。
「――ほう。簪を、な。」
報告を聞いた景辰の筆が、止まった。
「蒼真が選んだものを、買おうとした、と。」
「したんですけどね。最後の一本を、居合わせた令嬢に譲っちゃったそうで。結局、手ぶらです。」
蒼楽はにやにやしながら、主の顔を眺めている。
「……ふん。護衛の目利きが確かなのは、結構なことだ。」
「ですねえ。弟のやつ、選んだ簪が他人の頭に渡って、ちょっとしょげてましたけど。」
「結構なことだ。」
「二回言いましたね。」
景辰は筆を置き、しばらく黙っていた。
欲しかったものを、初対面の令嬢に迷いなく譲る。
いかにもあれらしい話だ。だが、その結果として、あれは茶会を前に手ぶらで――。
「……高峻。」
「はい。」
「明日の朝一番で、出入りの商人を呼べ。衣も、帯も、履も、簪も、玉も――茶会の一式だ。良いものを、選ばせる。」
それを聞き、思わず蒼楽は声をあげる。
「……おや?」
「何か言ったか?」
「いーえ、なにも?」
にやにや笑いを噛み殺す護衛を、皇子は威嚇するように一睨みして、また筆を取った。
その筆が進み始めるまでには、やはり少し、時間がかかった。
翌日の昼。稽古から戻った雨鈴は、自室の前で固まった。
部屋が、埋まっていた。
衣桁に掛かる何枚もの襦裙。帯、履、玉の腕輪、耳飾り。そして小箱にずらりと並ぶ、簪、簪、簪。
「な……何これ!? またこの光景!?」
「今度は目録に、知っている送り主の名ございますよ。」
翠華が、笑いを堪えた顔で目録を掲げる。署名は――景辰。
雨鈴は目録をひったくり、その足で皇子の執務房へ乗り込んだ。
「ちょっと! あれ、どういうこと!? あんなにたくさん、私、受け取れな――」
「ん?」
景辰は書類から顔を上げ、乗り込んできた雨鈴を見て――ニヤリ、と笑った。
「――俺が見初めた女に、贈り物をして何が悪い。」
「なっ……」
言葉が、出なかった。
演技だ。分かっている。「見初められた女」の看板に、恥じない支度をさせるだけの話。
頭では、ちゃんと分かっているのに。
顔に、火がついた。
「っ、お、お礼は言いますけど!言いますけどね!」
それだけ言い捨てて、雨鈴は執務房を飛び出した。
廊下を早足で戻りながら、両手で頬を押さえる。熱い。絶対、真っ赤だ。悔しい。
執務房では、蒼楽が感心したように口笛を吹いていた。
「言いますねえ、殿下も。」
「……役作りだ。」
「はいはい。」
役作りにしては、書類に走る筆が、さっきから同じ行を三度なぞっていた。




