第三十四話:それぞれの朝
翠華が目を覚ましたのは、梅香の自白から二日後の朝だった。
「――雨鈴、様……?」
掠れた声がした瞬間、寝台の脇で膝を抱えていた雨鈴は、文字通り跳ねた。
「翠華! 翠華、分かる?私よ、ねえ、お医者様――誰か、お医者様を!」
「……そのように、大きなお声を。……はしたのうございます。」
目を覚まして最初の言葉がそれか、とその場の全員が思った。翠華は霞む目で雨鈴を見上げ、それから、ひどく難しい顔をした。
「お髪が、乱れております。それに目の下の隈……私が寝ている間に、誰がお世話を。」
「春燕さんがしてくれたわよ!ちゃんと! もう、そんなことより……!」
そんなこと、ではないのですが、と口の中で呟く翠華の手を、雨鈴は両手で握った。温かい。ちゃんと、温かい。
「……おかえりなさい、翠華。」
「…………はい。ただいま戻りました、雨鈴様。」
心配をかけてしまったことを、翠華は幾度も詫びた。そのたびに雨鈴は首を振った。
あなたが食べてくれなければ、死んでいたのは私だ。その言葉だけは、まだ口にできなかったけれど。
同じ日の昼、景辰は第二皇子の宮を訪れていた。
「此度は、良い人手をお貸しいただきました。柏峰殿の働き、見事なものでした。……兄上のご厚意に、礼を申し上げます。」
「なに、恩を返しただけだ。うちの召使の親子が、世話になったのでな。」
景明は書物を傍らに置き、鷹揚に笑った。
「それにしても――存外、早かったな。もう少し、かかると思っていた。」
「……は?」
「調べの話だ。禁衛が匙を投げかけた一件を、十日足らずで裏まで返した。大したものだと言っている。」
褒め言葉のはずだった。なのに、なぜか採点をされたような据わりの悪さが残る。
この兄と話すときは、いつもこうだ。言葉の底が、見えない。
「……兄上は、なぜ手をお貸しくださったのです?恩返しだけが理由とも、思えませんが。」
「疑り深いな、お前は。」
景明は笑って、それから、灯りのない窓の外へ目をやった。
「恩は返す主義だ。それに――退屈していたのでな。面白いものが見られて、良い暇潰しになった。」
どこまでが本気か、まるで読ませない。
景辰が暇を告げて立ち上がると、背中に、世間話の声が追ってきた。
「時に。……噂の姫君は、息災か?」
足が、止まった。
「毒を盛られたのだろう。見舞いを言っておいてくれ。」
「……お心遣い、痛み入ります。兄上のお手を煩わせるほどのことは、ございませんので。」
「そうか。」
扉が閉まる、その間際。兄の目が細められた気がした。――気のせいだ、と景辰は思うことにした。
午後には、紫蘭が宮へ戻った。
その日のうちに、蓮池の亭から文が届いた。礼を述べたい、とある。
渡った橋の向こうで、疑いの晴れた第一側室は、以前と寸分違わぬ完璧な微笑で二人を迎え――そして、以前とはまるで違うことをした。
深々と、頭を下げたのだ。
「……お二方には、命と名誉を救われました。この借りは、必ず。」
「顔をお上げください。兄上の宮の一大事、当然のことを。」
「殿下は、そうでしょうね。」
紫蘭は身を起こし、扇の陰で、ふ、と笑った。その目が、雨鈴を見る。
「けれど姫君。あなたには、別の借り方をしなくては。……後宮で困りごとがあれば、蓮池へ文をお寄越しなさい。この池の水は、存外いろいろな話を運んでくるのよ。」
後宮の奥に、味方がひとり、できた瞬間だった。
ただ、帰り際の一言だけは、絹の声のまま冷えていた。
「――わたくしを嵌めた誰かさんには、いずれ、茶のお返しをしなくてはねえ。」
夕暮れ、雨鈴はひとり、庭に出た。
この数日、張り詰めていたものが、緑を見た途端にほどけていく。
石に腰を下ろして息を吐いた、その時。
「――ずいぶん、疲れた顔だな。」
振り向かなくても、分かった。木立の向こうから、口元を布で覆った男が歩いてくる。
「志遠さん。……お久しぶり、です。」
「毒を盛られた姫君にしては、元気そうで何よりだ。」
志遠はいつもの石に腰を下ろし、それから、包みを二つ、ぽんと投げて寄越した。
慌てて受け止める。ひとつは、まだ温かい。開けると、揚げたての胡麻団子が三つ。
もうひとつは、一冊の本。手に取ると『市井百話』と題のある、絵の多い読み物だった。
「……これ。」
「見舞いだ。手に余らん程度に、しておいた。」
布の上の目が、笑っている。雨鈴は思わず噴き出した。覚えていたのか。あの、庭の世間話を。
「ふふ……ありがとう。嬉しい。すごく。」
「そうか。」
団子を頬張る雨鈴を、志遠はしばらく黙って眺めていた。やがて、世間話と同じ軽さで、言った。
「しかし、大したものだな。禁衛が三日で幕を引こうとした一件を、ひっくり返して、真の下手人を掘り当てた。……景辰殿下は、ずいぶん良い"目"をお持ちらしい。」
団子が、喉の途中で止まった。
「……さ、さあ。私はただの客人だから、詳しいことは。」
「だろうな。」
志遠はあっさりと引いて、立ち上がった。夕陽が、木立の影を長く伸ばしている。
「まあ、何にせよ」
去り際、その声だけが、いつもより少しだけ低かった。
「――無事で、何よりだ。」
軽く手を上げて、男は木立の向こうへ消えた。
残された雨鈴は、手の中の温かい包みを見下ろした。
それから、自分が笑っていることに気づいて、少しだけ、困った。




