第三十三話:優しい眼差し
縄の一件の翌朝、景辰がまず打った手は、自白の要求ではなかった。
「兄上。梅香の身辺警護を、こちらの手の者にも受け持たせていただきたい。……昨夜、牢の奥まで口封じの手が届きかけました。次は、防げるとは限りません。」
差し入れ未遂の一部始終――運び手の骸と、あの脅迫の文を前に、景恒に否やはなかった。
その日のうちに梅香の牢は移され、見張りは景辰の手の者を交えた二重の番になった。
そしてこの動かぬ証は、もう一つのものを崩した。
「三日で調べを閉じる」という、禁衛の筋書きだ。
禁衛みずからが守る牢の奥まで、口を封じる手が届いた。
糸を引く何者かが外にいると示された以上、紫蘭を主犯として幕を引くことは、誰にもできなくなった。
――調べの期限は、白紙に戻った。
同時に、もう一つの手が、密かに西へ走っていた。
高峻が調べ上げていた梅香の身辺書きには、たった一人の身内――西の村に住む妹、小蓮の名があった。腕の立つ手の者が三名、村へ。追っ手より先に。関より先に。
――それから、三日。
敵が次の手を打つか、報せが先に届くか。息を詰めるような三日の果てに、西からの早馬は、報せが先だと告げた。
その足で、景辰は高峻と文修を伴い、梅香の牢へ向かった。格子の外には、使いの少年姿の雨鈴も控えている。
卓の上に、あの文が置かれた。
『妹の命が惜しくば、これを使い、自ら始末をつけよ』
梅香は文を一瞥し、すぐに目を伏せた。
「……存じません。私は、何も。」
「四日前の夜、これを運ぼうとした者を捕らえた。宛先は、お前だ。」
「存じません。」
「毒を検めたのは、お前だけだ。」
「……私は、何も。」
声は静かで、揺れがなかった。責めても、透かしても、この女は落ちない。落ちれば妹が死ぬと、心の底から信じているからだ。
だから景辰は、責めるのをやめた。
「――小蓮どのは」
梅香の肩が、初めて、揺れた。
「三日前に、俺の手の者が身柄を預かった。追っ手が付く前に街を出し、昨夜、西の関を越えた。……今頃は、国境の向こうだ。この国の誰の手も、もう届かん。」
「…………」
「妹を人質に取られた者が、何を言えるかは知っている。だから先に、人質を外した。それだけだ。」
梅香は、顔を上げた。血の気のない唇が、震えながら開く。
「……それは、本当ですか?」
「本当だ。」
「本当、ですか。本当に、小蓮は……」
何度も、何度も、同じ問いが繰り返された。景辰は急かさず、そのたびに同じ答えを返し、最後に一通の文を差し出した。
拙い、丸い字。姉さんへ、私は無事です、から始まる短い文。末尾には、幼い頃に二人だけで使っていたという、花びらの落書きがひとつ。
梅香の手が、文の上で凍りついた。
それから――堰が、切れた。
声を殺して泣き崩れる女を、誰も急かさなかった。長い長い嗚咽の果てに、梅香は床に手をつき、額づいた。
「……申し上げます。毒を、盛ったのは……私で、ございます。」
自白は、夜半まで続いた。
初めは文だけが届いたこと。従わねば妹の居どころを知っている、と髪の一房が添えられていたこと。
指図は常に文と、簾越しの声で、相手の顔は一度も見ていないこと。
文はそのたび回収され、手元には何ひとつ残らなかったこと。
――顔の見えない敵。
格子の外で聞いていた雨鈴は、そっと拳を握った。またしても、だ。この敵は知っているのだ。
顔さえ見せなければ、どんな手も辿れないことを。
それでも、梅香の自白は調書となり、認められた。紫蘭の疑いは晴れ、事件は「何者かに脅された女官の犯行」として、ひとまずの決着を見た。
数日後、景辰は第一皇子・景恒の宮に召された。
「――此度は、世話になった。」
景恒の声には、珍しく素直な響きがあった。無理もない。あのまま調べが閉じていれば、寵姫が毒殺の主犯として裁かれるところだったのだ。
「紫蘭も、明日には宮へ戻る。……弟に借りを作ったな。」
「兄上の宮の一大事です。当然のことをしたまでで。」
梅香には死罪が下るはずだった。だが自白と、脅迫の子細を明らかにした功、そして疑いの晴れた紫蘭自身の口添えもあり、死一等を減じられることが決まった。
城の内外で、第三皇子の名は静かに、しかし確かに上がった。
その様子を、景恒の傍らで見ていた正妃・秋霞が、ふわりと微笑んだ。
「ようございましたわね、あなた。紫蘭さんの疑いも晴れて……わたくし、ずっと案じておりましたのよ。」
夫へ向けるその眼差しは、どこまでも優しかった。
同じ夜。第二皇子・景明の私室に、柏峰が膝をついていた。
「――仰せの通り、一部の情報は伏せました。が、景辰様は見事に解決されましたね。」
「ふ。」
景明は書物を閉じ、笑った。
「梅香が、兄上の正室・秋霞様から命じられたとまでは、分からなかったようだがね。……まあ、及第点だ。」
部屋の隅に控えていた護衛が、遠慮がちに口を開いた。
「しかし……なぜ、今なのでしょう。正妃様が紫蘭様を疎んじておられるのは分かります。ですが景恒様の紫蘭様へのご寵愛など、今に始まったことではありますまい。」
景明は、声を上げて笑った。
「答えてやれ、柏峰。」
「――今だから、ですよ。」
柏峰は、淡々と言った。
「今なら、誰も疑わない。城中の目も、話題の姫君に向いている。そこを堂々とやられれば、世人はこう見ます――『紫蘭様は、自分の催しで客も守れなかった』と。狙った客が死ねばよし、死なずとも、主催者の力量も面目も丸潰れ。……どちらに転んでも、紫蘭様の株だけは確実に落ちる。よく出来た絵です。」
「そういうことだ。」
景明は肘掛けに頬杖をつき、灯りを眺めた。
それから、誰にも聞こえないほどの小さな声で、呟いた。
「……兄上に敬意を表して、見逃すのは今回だけだからな。」
灯りに照らされた目は、笑っていなかった。




