第三十一話:三本の矢の的
「――申し上げます。」
夜半、第二皇子・景明の私室に、報告の声が響いた。
灯りは一つ。皇子は書物から顔も上げずに、続きを促す。
「紫蘭様の茶会にて、毒の一件が。狙われたのは第三皇子様の……例の、市井の姫君かと。毒見の女官が身代わりに倒れ、一命は取り留めた由。」
「ふむ。」
頁をめくる手が、止まった。
「……うちの召使の親子を助けた、かの者が狙われた、ということだな。」
「は。左様にございます。」
景明は書物を閉じ、しばし灯りを眺めた。
「恩を返す時だ。――うちからも、調べのできる者を景辰の元へ派遣せよ。早期の解決の、手助けとなろう。」
「……第三皇子様の宮へ、にございますか?」
「そうだ。何か、おかしいか?」
「いえ。ただ、殿下が余所の宮の騒ぎにお手を貸されるのは、珍しゅうございますれば。」
「恩は返す主義だ。それだけのことよ。」
使いが下がり、扉が閉まる。
一人になった部屋で、皇子は閉じた書物に手を置いたまま、しばらく灯りを見ていた。
やがて、低い呟きがひとつ、落ちた。
「……つまらん手を、使う者がいる。」
灯りに照らされたその目は、笑っているのに、笑っていなかった。
雨鈴の部屋から自室へ戻って間もなく、景辰の元へその使いは来た。
「第二皇子様よりの、お申し出にございます。『此度の一件、早期の解決を願い、調べに長けた者を一名、貸し遣わす』と。」
――どういう、風の吹き回しだ?
あの兄が、弟の宮の騒ぎに自分から手を貸す。記憶にある限り、初めてのことだった。裏があるのか。それとも、ただの気まぐれか。
心中の疑問は、しかし顔には出さない。
「……兄上のご厚意、ありがたくお受けする。よしなに、とお伝えしてくれ。」
兄の顔は、立てておくものだ。それに実利で言えば、猫の手も借りたい局面ではある。
三日の期限。十二人の侍女。絞りきれない容疑。――雨鈴の矢を放つには、まだ的が広すぎる。
こうして翌朝から、三つの宮の混成という奇妙な陣立てで、調べは再開された。
二日目の夜。景辰の房の卓に、三枚の紙が並んだ。
「――絞れました。三人です。」
報告は高峻、補足は文修、そして第二皇子から遣わされた柏峰という物静かな男が、時折短く裏付けを足した。この男の調べの速さは、正直、薄気味悪いほどだった。
「厨から亭までの菓子の道筋を、全部洗いました。焼き上がりの検め、皿への盛り付け、運び、席への配り。この間に菓子へ触れられた者は九人。うち六人は、常に複数の目の中にいて、盛る隙がありません。残るは、この三人です。」
一枚目の紙を、高峻が指す。
「厨の下役、陳三。南方の生まれで、鴆の産地に土地勘がある。賭場に借金があり、近ごろまとまった銭で一部を返しています。盛り付けの直前、四半刻ほど厨に一人でした。」
二枚目。
「亭の差配役、李順。二年前から紫蘭様付きに仕えています。給仕の順と皿の配りを決めた男。つまり『どの皿が誰の前に置かれるか』を知り得た、数少ない一人です。……銭にも身辺にも曇りがなく、動機だけが、まるで見えません。」
三枚目。
「紫蘭様付きの女官、梅香。古参で、信任厚く、毒見の前の最後の検めを任されていました。検めの名目で、皿の一つ一つに触れられる唯一の立場です。……身辺は、三人の中で一番きれいです。きれいすぎる、と言ってもいい。」
文修が、静かに付け足した。
「鴆に類する毒は、素人が扱えば自分が先に倒れます。三人のうち誰であれ、毒の扱いを誰かに教わったか――毒を扱える者が、後ろにいるかと。」
卓の上の三枚を、景辰は長いこと見下ろしていた。
銭に詰まった厨の男。恨みを持ち得る差配役。清すぎる古参の女官。
「……ご苦労だった。今夜は下がって休め。」
三人が去ると、景辰は紙をまとめて立ち上がった。蒼楽が、にやりとする。
「とうとう動くんですか?」
「ああ。」
的は、三つまで絞れた。ここから先は、足でも銭でも割れない。割れるのは、あの目だけだ。
「矢の、時間だ。明日、動く。」




