第三十話:眠らない夜
翌朝から、雨鈴の暮らしは一変した。
目を覚ませば、枕元にはすでに春燕が控えている。
湯も、着替えも、髪も、食事の毒見も、何もかもが完璧に整えられていく。
廊下に出れば、三歩後ろに厳鋭。
岩のような体躯の男は、無駄口をひとつも利かず、ただ影のように付いてくる。
守られている。それは、間違いない。
――でも。
(……力を使う隙が、どこにもない)
目を閉じて、意識を沈める。未来視には、それだけの静けさが要る。
だが今の雨鈴の周りには、常に誰かの目があった。しかもその目の半分は、麗妃様のものだ。
占い師の正体を、景辰は母君にすら明かしていない。
守りが固くなるほど、私の武器は使えなくなる。
皮肉な話だった。
昼過ぎ、景辰が調べの報せを持ってきた。人払いはできない代わりに、声は低かった。
「文修の見立てが出た。……あの毒は、南方渡りの鴆に類する代物だそうだ。即効で、量を誤れば確実に人を殺す。塗られていたのは、菓子のうち、たった一つ。」
「……私の皿の、一つだけ。」
「ああ。座興でも、無差別でもない。初めから、お前一人を狙った毒だ。」
分かっていたことでも、言葉にされると、指先が冷えた。
「紫蘭様は?」
「否認している。……だが禁衛は、紫蘭で片を付けたがっている。主催の席で、自分の出した菓子だ。筋書きとしては一番楽だからな。三日もすれば、調べは閉じられる。」
「そんな。あの人、あの時――誰よりも青ざめてたのよ。自分の席で事を起こす馬鹿が、どこにいるの?」
「同感だ。紫蘭は使われた。おそらく、盛った手は配膳の中にいる。……だが高峻と文修が当たれる範囲には、限りがある。侍女は十二人。三日で全員は洗えん。」
十二人。三日。
雨鈴は、袖の中でそっと拳を握った。
――なら、私が絞る。
その夜。
春燕が下がり、灯りが落とされ、戸の外に厳鋭の気配だけが残った。
雨鈴は寝台に入り、呼吸を三十数えてから、夜着の中で目を閉じた。眠ったふりのまま、力を沈める。
こんな窮屈な使い方は初めてだったが、贅沢は言っていられない。
――ひとりずつ。怪しい順に。
まず、あの日、自分の前に皿を置いた侍女。左の眉尻に傷のある娘。
視えたのは、禁衛の詰所だった。娘は板の間に座らされ、泣きながら同じ言葉を繰り返している。
「知りません、私は運んだだけです」。
責め立てる側の靄。震える細い肩。……嘘をついている者の震えには、見えなかった。
次。配膳を差配していた、侍女頭。
薄暗い部屋で、荷をまとめている。逃げ支度かと息を詰めたが、続く映像で分かった。
暇を出されたのだ。主家の一大事の責めを負って。畳んだ衣の上に、涙が落ちた。
次。玉蓉。
扇を手に、取り巻きと笑っている。「あの女、命拾いしたそうよ」。
棘は相変わらずだが、それだけだった。毒の話をする素振りも、怯えもない。
次。紫蘭。
石造りの一室で、背筋を伸ばして座っている。誰かに何かを問われ、静かに首を振る。
その横顔は、罪人のものではなく――濡れ衣を着せられた者の、怒りを堪える顔だった。
次。数珠の刀自。次。翡翠の歩揺の奥方。次。礼部尚書の姫。次――。
視るたび、指先から熱が抜けていく。冷えは手首を越え、肘を越え、肩に届いた。それでも、やめられなかった。誰かひとり、たったひとりでいい。靄と会う者、震える者、逃げる者――。
いない。
誰の未来にも、手掛かりがない。
(あと、少し……あと一人、だけ……)
どこかで、砂時計の最後のひと粒が落ちる感覚がした。
瞼の裏の映像が、ぷつりと途切れる。
五分。使い切った。
そこから先は、よく覚えていない。
体の芯まで凍えて、歯の根が合わなくて、掛布を何枚重ねても震えが止まらなくて――。
「――様、雨鈴様!」
遠くで、春燕の声がした。
夜明け前の見回りで異変に気づいた春燕の動きは、さすがに早かった。
すぐさま医師が呼ばれ、湯たんぽが運ばれ、宮が静かに騒がしくなる。
医師は首をひねった。熱はない。傷もない。
ただ、体が氷のように冷えきって、脈が弱い。「原因が、分かりかねます」と。
報せを受けた景辰が来たのは、早朝だった。
「……大丈夫よ。ちょっと、冷えただけ。」
寝台の上から笑ってみせたが、顔色までは取り繕えなかったらしい。
景辰は雨鈴の顔をじっと見て、それからかたわらの春燕へ向き直った。
「春燕殿。……すまないが、少し席を外してくれ。」
「なりません。麗妃様より、お側を離れぬよう仰せつかっております。」
「病人の枕元に人が多くては、息が詰まる。障りになる。……少しの間でいい。――頼む。」
春燕の目が、わずかに見開かれた。皇子が女官に、頼む、と言った。命じるのでも、退けるのでもなく。
しばしの沈黙のあと、春燕は深く礼をして、静かに下がった。戸が、閉まる。
「……珍しいのね。あなたが、お願いなんて。」
「黙れ。……で?」
景辰は寝台の傍らに腰を下ろし、声を落とした。
「この冷え方、ただの風邪ではないな。――視たのか?」
「…………視たわ。」
雨鈴は、観念して白状した。
「昨日の夜。五分、全部。怪しい順に、皿を置いた子、侍女頭、玉蓉様、紫蘭様……覚えている顔、片っ端から。」
「馬鹿者。全部使う奴があるか。」
「時間がないのよ! 三日で調べが閉じるんでしょう。なのに――」
声が、震えた。冷えのせいだけでは、なかった。
「なのに、何もなかったの。誰の未来にも、手掛かりがひとつも。皿を置いた子は本当に運んだだけ。紫蘭様は濡れ衣。玉蓉様も違う。……私の力、こんな時のためにあるはずなのに、何の役にも――」
「――落ち着け」
景辰の声は、静かだった。
「何もなかった、と決めるのは早い。」
「……でも、視たのよ。覚えている顔、全員」
「視えるのは、これから三日の、それも一人につき、ほんのひと呼吸分の場面だけなのだろう。……犯人は、しくじった直後だ。息を潜めていて当然。この三日、たまたま動かないだけかもしれん。時期が悪ければ、何も映らん。――違うか?」
……その通り、だった。
悔しさで頭に血が上って、一番大事な決まりを忘れていた。視えないことは、白の証にはならない。
昨日の空振りは「犯人がいない」ではなく、「今は視える時ではない」だけかもしれないのだ。
「だから、今は撃つな。」
景辰は、諭すように続けた。
「お前の矢は、一日に五分きりだ。闇雲に射れば、昨日の二の舞になる。……的は、こちらで絞る。高峻と文修が足で調べる。俺は城の中の銭と人の流れを読む。狙いが定まったら、俺が言う。――次に視るのは、その時だ。それまで、力は温存しろ。」
「……分かった。」
凍えた頭の芯に、その言葉はゆっくり沁みた。
矢が少ないのなら、射手一人で戦わなければいいのだ。
的を絞る者と、射る者。それでいい。
景辰は立ち上がりざま、掛布を雨鈴の肩まで引き上げ、ついでのような手つきで、布越しに冷えた指先をひと撫でした。
「休め。回復するまで、視ることを禁じる。……次に勝手に使い切ったら、簪を没収するからな。」
「な……!それとこれと、何の関係があるのよ!」
「ある。」
それだけ言って、皇子は部屋を出て行った。




