第二十八話:蓮池の亭
当日の朝、支度を終えた雨鈴が姿を見せると、控えの間が一瞬、静かになった。
淡い水色の襦裙に、銀糸で波紋を刺した披帛。
結い上げた髪には、あの月の簪がひとつ。
翠華が薄く刷いた紅は、市育ちの潔さを消さないまま、輪郭だけを娘から姫へ変えていた。
「いや~……見事です。かわいい! うちの雨鈴ちゃんが一番かわいい。」
蒼楽が手放しで褒めそやす横で、景辰は雨鈴を上から下まで眺め、ふんと鼻を鳴らした。
「……馬子にも衣裳だな。」
「殿下、それ褒めてます?」
「褒めている。」
本人は大真面目にそう言うのだから、この男なりの最上級なのだろう。多分。
池を渡る橋の上で、翠華が声を落として最後の講義をくれた。
「よろしいですか。本日の客は、ほとんどが第一皇子様と所縁の深い方々です。大臣の奥方、尚書のお嬢様、皇子様の乳母のお家……紫蘭様はその只中に、いま城で一番話題の雨鈴様を招いてみせる。『私はこういう席を作れる女だ』と、諸家に示すためです。そして――」
「そして?」
「その披露は、そのまま正妃様への圧になります。側室の催しにこれだけの顔が集まると、見せつけているのですから。」
つまりこの茶会で、雨鈴は珍しい茶器と同じだ。飾られて、値踏みされて、誰かの格を上げるための。
「……分かった。せいぜい、良い茶器のふりをするわ。」
亭の中は、簾越しの光と衣擦れの音で満ちていた。
上座の紫蘭が扇を伏せて微笑み、居並ぶ客が一斉にこちらを見る。
大臣の夫人、尚書の姫、乳母の家の刀自――紹介の声が流れるたび、雨鈴は礼の角度の裏で、必死に顔と名前を刻み込んでいった。
右の頬に黒子、礼部尚書の姫。翡翠の歩揺、大臣の奥方。数珠を持つ刀自は乳母の家。
ひとつも、落とさない。今日の本当の仕事は、これだ。
茶が三巡した頃、紫蘭がやわらかく水を向けた。
「ねえ、殿下。皆さま興味津々でいらっしゃるのよ。……そちらのお客様とは、どのような出会いで?」
「どこを、見初められましたの?」
問いが、さざ波のように続く。景辰は茶碗を置き、こともなげに答えた。
「視察に出た先で、な。……このように可憐で、かわいらしい人を、見過ごせなかったのだ。」
ぶっ、と噴き出しそうになるのを、雨鈴は奥歯で堪えた。
「ことにこの瞳が良い。まっすぐで、濁りがない。覗き込むと、こちらの姿勢を正される心地がする。」
可憐。かわいらしい。瞳が。――誰の話!?
恥ずかしさに耐えかねて、ちらりと隣を見る。と、景辰は客たちに見えない角度で、ニヤリと笑ってみせた。
……この男、私で遊んでいるな~!?
怒りか照れか、自分でも分からない熱が頬に昇る。
だがその赤味は、幸か不幸か、周囲には殿下の言葉に恥じらう姫の姿にしか見えなかった。
あちこちで扇が揺れ、まあ、と甘い溜め息が漏れる。
「では殿下は、その方の、特にどこに惹かれておいでですの?」
紫蘭の問いに、景辰は少しだけ考えて――今度は、笑わずに言った。
「やはり、考えるより先に、体が動くところですかね。……私の予想の外のことばかりするので、つい、目で追いたくなる。」
その言葉に、客たちの間で、さざめきが起きた。
「まあ……確かに、あの時は」
「牡丹の園の。ええ、ええ、聞きましたわ。召使の子のために、御髪も衣も構わず池へ」
「わたくし、その場におりましたのよ。誰も動けなかったのに、この方だけが……ご立派でしたわ、本当に。」
思わぬ方向から次々と実例を添えられて、雨鈴は座ったまま小さくなった。
褒め殺しの台本には慣れたつもりだったが、あの件を面と向かって褒められるのは、台本の外だ。
どこを見ていいか分からず、結局、膝の上の自分の手を見た。
景辰は、ほら見ろ、とでも言いたげに目を細めている。
ただ一人、末席で茶器を扱っていた翠華だけが、手を止めていた。
――今のは。
台本の言葉は、あんな目ではおっしゃらない。あれは、本心だ。
談笑はなだらかに進み、締めくくりに、珍しい菓子が運ばれてきた。
「南から届いたばかりの品ですのよ。ぜひ、皆さまに。」
白磁の皿に、琥珀色の菓子が並ぶ。雨鈴の前に置かれた皿へ、翠華がいつもの通り、静かに先に手を伸ばした。毒見は供の役目。今日も、それまでの茶と同じ、ただの手順のはずだった。
小さくひと口。
翠華の眉が、ぴくりと動いた。
次の瞬間、彼女は袖で口を覆い、菓子を吐き出した。
「翠華?」
返事の代わりに、白い袖に、赤が滲んだ。
口の端から、細く血が流れている。翠華の体が、ゆっくりと傾いだ。
悲鳴が、亭を引き裂いた。
「翠華! 翠華、しっかりして!」
雨鈴は膝立ちで駆け寄り、崩れる体を抱き留めた。指先が氷のように冷たいのは、力のせいではない。
「――これは、どういうことだ!」
景辰の声が、亭を震わせた。
「誰か、医師を!!早く!」
客たちが総立ちになり、簾が乱れ、皿が鳴る。腕の中で翠華の呼吸が浅く、速くなっていく。
「翠華、目を開けて、翠華……」
必死に呼びかけながら、雨鈴は顔を上げた。
上座の紫蘭が、見えた。
扇は、落ちていた。その顔から血の気が引いて、唇だけがかすかに震えている。
――青ざめて、いる。
自分の催した席で、自分の出した菓子で。この人は今、誰よりも、驚いている。




