第二十七話:好きなもの
執務の手が、止まっていた。
昨夜の気づきが、朝になっても胸の底に居座っている。
――俺は、あいつが何を好きなのか、何も知らない。
ならば、と景辰は身近な者たちを順に思い浮かべてみた。
蒼楽。翠華。長く仕えている侍従。護衛たち。
……何も、出てこなかった。
誰の好物も、好みも、何ひとつ。剣の腕なら言える。仕事の癖も、忠誠の度合いも言える。
だが「何が好きか」となると、たったの一つも――。
「殿下ー、蓮池の亭の護衛の件、確認いいですか……って、あれ?」
書類を手に入ってきた蒼楽が、戸口で足を止めた。
「どうしたんですか、そんな気の抜けた顔して。」
景辰は我に返り、それから、じっと蒼楽を見つめた。
「……いや、ホントにどうしたんです? 熱でもあります?」
「蒼楽。……お前は、何が好きだ?」
「はい?」
蒼楽は、きょとんと目を丸くした。それでも顎に手を当てて、素直に考え始めるのがこの男だった。
「えーっと……食べ物ですか?だったらやっぱり、肉ですよね~。この前の羊、うまかったなあ。あとは武器なら双剣。あれが一番手に馴染むんで好きですね。他は~」
すらすらと、出てくるものだ。
「あと、女の子はみんな好きですけど!特に好みで言えば、おしとやかで、俺が守ってやる背中で、ひっそり微笑んでるような娘がいいですねえ。……はは、殿下とは正反対だ!」
「ふむ。」
景辰は、深く頷いた。
(……いや、そこは笑うか怒るかするところだと思ったんだけどなあ)
心中で首をひねる蒼楽をよそに、皇子は真顔のまま、次の問いを放った。
「では聞くが。お前は、俺の好きな物が分かるか?」
「殿下のですか?そりゃもう。」
蒼楽は、指を折り始めた。
「茶は苦いくらい濃いのがお好みで、菓子は甘いのが苦手。食べるなら餡より木の実の類。書見は兵法より史書。馬は大人しいのより気性の荒いやつ。雨の日は嫌いなくせに、雨上がりの稽古場の土の匂いは好きでしょう。あとは――」
「待て。……なぜ、そんなに分かる?」
驚きを隠せない主に、蒼楽はあっけらかんと笑った。
「そりゃ、長く一緒にいて、ずーっと殿下を視てますからね。」
「……」
「まあ、俺は護衛って立場上、勝手に多く知れるだけですよ。普通はあれです、対話です、対話。聞いて、話して、覚える。情報収集の基本でしょ?」
「そ、そうだな。」
皇子ともあろう者が、護衛に情報収集の基本を説かれていた。
「はい、この話は終わり! 仕事の話です、殿下。――蓮池の亭、正直、嫌な場所ですよ。」
広げられた図面の上で、蒼楽の指が池の中央を叩いた。
亭は池の真ん中、渡りは橋が一本。
第一皇子の宮域ゆえ護衛は門まで、中に付けられる供は翠華ひとり。
「橋を渡ったら、殿下と雨鈴ちゃんは丸腰も同然です。……ま、向こうの庭で刃は抜かんでしょうけど。怖いのは刃じゃなくて、言葉と、茶と、座り順です。」
軽い男が、軽くない声で言った。
同じ頃、雨鈴の房では、翠華の特訓が佳境を迎えていた。
「茶碗は両手で。飲みきってはなりません。褒められたら、まず殿下を立てる。問われて答えに詰まったら?」
「『わたくしには、もったいないお話で』……って逃げる。」
「結構。……あの席での本当のお役目は、受け答えではございません。」
「分かってる。――顔を、覚えること。」
夕刻、進み具合を見に来た景辰は、作法の稽古で伸びていた雨鈴を一瞥し、労いとも呆れともつかない息を吐いた。それから、妙な沈黙のあと、出し抜けに言った。
「……菓子は、何が好きだ?」
「へ?」
「だから、菓子だ。好みの、菓子。」
「え、何、当日出るお菓子の話?毒見のこと?それなら翠華が」
「――もういい。」
踵を返しかけた皇子の前に、しかし、音もなく翠華が回り込んだ。
「お待ちくださいませ、殿下。……ちょうど、ようございました。」
「……何がだ。」
「実は、申し上げようと思っておりました。お二方は、想い合うお体。ことに殿下は、雨鈴様を見初めて囲われた、ということになっております。――その殿下が、雨鈴様の菓子の好みひとつご存じないのは、いかがなものでしょう?」
翠華の声は、あくまで慇懃だった。
「茶会の席で『殿下、雨鈴様はどのようなものがお好きで?』と水を向けられたら、いかがなさいます。会話の途中で、必ずボロが出ます。」
「……む。」
「互いのことを、知っておいていただきます。これも立派な、当日の備えにございますれば。――私は、茶を淹れて参ります。ごゆるりと。」
言うだけ言って、女官は房を出て行った。
残されたのは、気まずい沈黙と、二人だった。
「……ふ、ふふ。」
先に噴き出したのは、雨鈴だった。
「何これ。お見合いみたい。」
「……備えだ。座れ。」
卓を挟んで、妙な問答が始まった。
「菓子。……さっきの、答えていなかったな。」
「胡桃の餅。あとは市の胡麻団子ね。揚げたてに限るの。……そっちは?対策なんでしょ、あなたも答えてよ。」
「俺は……」
景辰は、言葉に詰まった。
「……考えたことが、ない。」
「出たわね。」
雨鈴はけらけらと笑った。
「じゃあ、今考えて。ほら、真剣に。」
真剣に、と言われた男は、本当に真剣に考え始めた。この男は、何にでも真剣なのだ。長い沈黙のあと、絞り出すように答えが出た。
「……木の実の類は、嫌いではない。」
「じゃあ胡桃餅ね。今度、半分あげるわ。」
「半分か。」
「半分よ。好物だもの。」
問答は、続いた。好きな色(雨鈴は空色、景辰は答えるのに二百数えた)。
苦手なもの(雨鈴は雷と絹の重ね着、景辰は「特にない」と言い張って雨鈴に嘘だと見抜かれた)。
景辰が「……雨上がりの、稽古場の土の匂いは、悪くない」と白状した時には、雨鈴は目を丸くして、それから、へえ、と柔らかく笑った。
「意外。……素敵ね、それ。」
「……そうか。」
耳の赤さは、灯りのせいにできる暗さで助かった。
翠華が茶を持って戻ってきたのは、それからずいぶん経ってからだった。
淹れるのにかかるはずのない時間だったが、誰も指摘しなかった。
卓の上では、市の屋台の話と城の噂話が行き来していて、茶はその後、二度冷めた。
好きなものを尋ね合うだけの夜は、二人にとって、初めての――任務でも謎解きでもない時間だった。




