第二十六話:文の山と、小さな花束
「まったく、こんなところにいらしたんですか。昨日の今日で、まだ本調子ではないのですよ。」
庭で見つかった雨鈴は、翠華に連れられて宮へ戻った。
呼ばれていた理由は、部屋に入ってすぐに分かった。
贈り物の山が片付いたと思ったら、机の上に、次の山ができていた。
「本日届いた分だけで、十七通にございます。」
翠華が文箱を掲げてみせる。どれも上等な紙に、香を焚きしめた、茶会への誘いだった。
「雨鈴様は、ここ数日この城の中心人物でいらっしゃいますからねえ。」
愚痴ともからかいともつかない口ぶりで言って、翠華は文を日付ごとに並べ始める。
雨鈴は、その一通を手に取った。
「……この差出人、全員が敵なのかな?」
ぽつりと、呟きが落ちた。
裏通りの暮らしは、生きるだけで精一杯だった。
同じ年頃の娘と笑い合ったり、他愛ない話をしたりした覚えは、数えるほどしかない。
だから机に積まれた十七通の誘いは、見ようによっては、生まれて初めての花盛りだ。
その全部が、嫌がらせのためだと思うと――少しだけ、悲しかった。
「残念ながら、多くは嫌がらせか、敵情の視察でございましょうね。」
翠華は、手を止めずに答えた。
「あとは、今評判の令嬢をひと目見たいだけの、野次馬か。……ですが」
一通の文が、すっと差し出された。
「例えばこちら。沈家の姫、明琳様からにございます。沈家の奥方様は、景辰様の母君・麗妃様と昔から親しくていらっしゃる。明琳様ご自身には、すでに婚約者もおられます。」
「……つまり?」
「側室の座を争う理由のない方、ということです。きっと純粋に、雨鈴様ご自身と縁を結びたいのですよ」
敵じゃない誘いも、ある。
それだけのことが、思いのほか嬉しかった。
じゃあ最初はこの明琳様のお茶会に――と算段を始めた、その時。
こん、こん。
部屋の扉が、鳴った。
現れた使いの者は、廊下に膝をつき、仰々しく名乗りを上げた。
「第一皇子様が第一の側室、紫蘭様よりの招きにございます。三日ののち、蓮池の亭にて茶の会を催されます。――雨鈴様、ならびに」
使いは一拍おいて、続けた。
「景辰殿下にも、御文が届けられております。」
翠華がそつなく受け答え、文を受け取って戸を閉める。
振り返った顔は、もう世話役のそれではなく、後宮を生きてきた女官の顔だった。
「……第一のお茶会の行き先が、決まってしまいましたね。」
断れる相手ではない。しかも、二人揃っての招きだった。
その夜、景辰が房に来て、作戦会議が開かれた。
「紫蘭は第一皇子の宮の実質の女主人だ。招きの意図は、十中八九、値踏み。豊陽の件以来、兄上の陣営は俺の動きを気にしている。……『見初めた女』がどの程度の駒か、直に確かめる気だろう。」
「振る舞いは、いかがいたしますか?」
「噂の通りでいい。俺に見初められた、市井の女。余計なことは言わせず、俺が横で捌く。」
「……ねえ。私、その紫蘭様の顔を知らないの。」
雨鈴が言うと、景辰は頷いた。意味は、正確に通じている。
「視ようがない、か」
「ええ。だから当日までは、丸腰。……仕掛けがあっても、事前には分からないわ。」
「構わん。初手から仕掛けてくる相手ではない。まずは顔だ。顔さえ拝めば、次からはこちらの土俵――」
こん、こん。
また、扉が鳴った。
「……こんな夜中に。」
翠華が立つ。景辰の目が細くなり、廊下の護衛が身じろぎする気配がした。
この刻限の来客に、良いものは少ない。
やがて戻ってきた翠華は、なぜか、小さな花束を抱えていた。
野の花だ。名も知らない白と黄の花に、青い野草が無造作に添えられている。
絹にも玉にも埋もれない、けれど朝露の匂いのしそうな、小さな束。
「それは?」
「雨鈴様に、と。……志遠様から、だそうです。」
「!」
ぱあっと顔を輝かせ、雨鈴は花束へ手を伸ばした――が、その手首を、横から掴まれた。
「待て。」
「え?」
「志遠。……例の、素性の知れん男だな。夜更けに、使いも通さず宮の奥まで文も添えずに花だけ寄越す。……仕掛けがないと、なぜ言える?」
「そんなこと、あるわけ――」
言いかけて、景辰の目の据わり方に、雨鈴は渋々口を閉じた。
護衛が呼ばれ、花束は検められる。針の一本、毒の一滴もない、ただの野の花だった。
「……ほらね?」
返された花束を抱え、雨鈴の機嫌はもう天井知らずだった。
「翠華、花瓶どこー? 水、入れるわ。」
鼻歌まじりに花を活ける背中を、部屋の男は黙って見ていた。
雨鈴の頭の中にあったのは、三日後の茶会の気鬱と、そこへ降ってきた思いがけない癒しのことだけだった。けれど傍から見ればそれは――想い人からの花束に頬を緩める、年頃の娘の姿にしか見えなかった。
「……俺は戻る。」
景辰は短く言って、席を立った。
「え、もう? 会議の続きは?」
「明日だ。」
戸が閉まる。翠華が慌てて見送りに出て、廊下で深々と頭を下げた。
主の背中が、いつもより硬い理由に、この聡い女官だけは気づいていた。
自室に戻った景辰は、灯りも点けずに椅子へ身を沈めた。
瞼の裏に、先ほどの光景が焼き付いて離れない。
山と積んだ絹にも玉にも見せなかった顔を、あの女は、素性も分からん男の野の花ひとつで――。
……面白くない。
何がどう面白くないのかを言葉にするのは、意図して、やめておいた。
代わりに、ひとつの事実が、静かに胸に落ちてきた。
俺は、あいつが何を好きなのか――何も、知らない。




