第二十四話:牡丹の園
三日間、雨鈴は詩を習った。
「良いですか、雨鈴様。詩とは、技巧ではございません。技巧はあの方々の土俵。競ってはなりません。」
翠華の稽古は、意外なほど本格的だった。韻の踏み方、季の言葉、書き出しの型。そして最後に、こう言った。
「型だけ覚えたら、あとは、雨鈴様にしか見えないものをお詠みなさいませ。あの園にいる誰も、市の夕暮れを知りません。」
「はー、いよいよ女の戦ですねえ。」
廊下で聞いていた蒼楽は他人事のように笑い、景辰は何も言わなかった。
ただ当日の朝、出がけにひとこと、「……その簪で行け」とだけ。
牡丹の園は、噂の女を一目見ようという人垣で、花より賑やかだった。
上座の玉蓉は、この世の春のような笑顔で雨鈴を迎えた。
「ようこそ、雨鈴様。今日はどうぞ、お気を楽に。」
詩会は、幾つもの題を重ねて進む趣向だった。
まずは「牡丹」、次に「風」。
娘たちが扇のような達筆を競い、雨鈴の帳面で鍛えた素っ気ない手には、そのたびに忍び笑いが降った。それでも翠華の教え通り、市の暮らしの言葉だけで詠み継いで、恥をかく側からは降り続けた。
そして、日が傾き始めた頃。
「では、本日最後の題を。」
玉蓉が、扇を開いた。
「――『殿下のお好きなところ』。皆さま、日頃の想いを、存分に。」
園が、華やいだ悲鳴に包まれた。頬を染める者、早くも筆を取る者。
なるほど、この題のためにこの会はあったらしい。
想いの丈なら誰にも負けない、という筆頭候補の自負が、題の選び方に透けていた。
雨鈴も、仕方なく筆を取った。雅な言葉は知らない。
だから、まずは思いつくままに、知っていることを書き出していく。
ここから翠華に習った型に整えて、詩の形にするつもりだった。
書き出しを終えて、さて――という、その時だった。
牡丹の茂みが、がさりと揺れた。
転がり出てきたのは、小さな子どもだった。
年は五つか六つ。継ぎの当たった木綿の裾、洗い場の匂い。
召使の子が、迷い込んだのだ。
華やいでいた園が、水を打ったように静まった。
「……まあ。」
玉蓉の声が、氷の膜を張った。
「汚らしい。誰の子です? 早く、この場から立ち去らせなさい。」
付き添いの警護が、すぐさま動いた。大人の男たちが幾人も、血相を変えて向かってくる――幼い目に、それがどう映るか。
子どもは、ひっと喉を鳴らして駆け出した。
「あ、待って、そっちは――!」
雨鈴が叫んだ時には、遅かった。
小さな体が池の縁の石に躓き、水音が、牡丹の園の空気を割った。
悲鳴。立ち尽くす娘たち。池の面を叩く、小さな手。
警護の男たちさえ、互いの顔を見合わせて動かない。
誰かが「誰か」と言い、その誰かは、どこにもいない。
――ああ、もう!
雨鈴は簪を引き抜いて放り、裾をつかんで池へ飛び込んだ。
水は見た目より深く、そして冷たかった。
沈みかける小さな体を抱え上げ、水を蹴る。重い。
着物が水を吸って、鉛のように四肢に絡みつく。
それでも岸は、あと少し――。
差し伸べられた翠華の手に、子どもを押し上げる。
げほ、と小さな咳が聞こえた。生きている。よかった。
安堵した途端、体から力という力が抜けて、雨鈴の意識は水音の向こうへ沈んだ。
目を覚ますと、見慣れた天井があった。
「――雨鈴様!」
翠華の顔が、視界いっぱいに飛び込んでくる。目の縁が、赤かった。
「ああ、よかった……気を失われたまま、半日も。」
「……子どもは?」
「ご無事です。洗い場の女の子どもで、母親が泣いて御礼を。……まったく、この方は、目を覚まして最初のお言葉がそれですか。」
翠華が報せに出て、しばらくして、足音がひとつ。
戸口に立った景辰は、寝台の雨鈴を見下ろして、開口一番に言った。
「――馬鹿者。」
「……はい。」
「泳ぎの心得は。ないだろう。着物のまま飛び込む阿呆がどこにいる。お前まで沈んだら、誰が…」
言葉が、そこで一度切れた。
「……誰が、助けると思っている。」
「……ごめんなさい。でも、後悔はしてないわ。誰も動かなかったんだもの。」
景辰は長々と息を吐き、寝台の傍らの椅子に腰を下ろした。
「……で。会は、どうだった?」
「なんとか、やってやったわ。笑われたけど、恥はかいてない。翠華の稽古のおかげ。」
「そうか。」
答えながら、雨鈴はふと、中断された最後の光景を思い出した。思い出して、ふふ、と笑いが漏れる。
「……何がおかしい?」
「中断する前の、最後のお題がね。――『あなたの好きなところ』だったのよ。」
「……は?」
「玉蓉様が出した題。『殿下のお好きなところ』。皆さま、それはもう嬉しそうに筆を執って。……ふふ、あの人、ああいう人だけど――本当に、あなたのことが好きなのね。」
景辰は何とも言えない顔で黙り込み、やがて立ち上がった。
「……もう休め。話は明日だ。」
「はぁい。」
戸が、静かに閉まった。
自室へ戻る回廊で、景辰は懐から、一枚の濡れ皺の残る料紙を取り出した。
歌会の後始末の折、部下が「雨鈴様のお荷物です」と届けてきた中にあったものだ。
読み上げられずに終わった詩が惜しい気がして、深く考えずに抜き取っておいた。
――まさか。
まさか、題が、己の好きなところとは。
月明かりの下で、紙を開く。相変わらずの、素っ気ない帳面の字。
それは、詩ではなかった。詩に整える前の――思いつくままに書き出した、ただのメモ書きだった。
飾りも、推敲も、まだ何ひとつ通っていない、剥き出しの言葉が並んでいる。
『難しい顔をしながら、相手に思いやりがあるところ』
『民のことを真剣に考え、動けるところ』
『私を信用し、居場所を与えてくれるところ』
「…………」
景辰は紙を畳み、開き、もう一度畳んだ。
それから誰もいない回廊で咳払いをひとつして、料紙を懐の一番深いところへ仕舞った。
「……本当に、ひどい字だ。」
呟いた声は、自分でも分かるほど、締まりがなかった。




