第二十三話:招きの文
「噂って、本当に矢より速いんですね。」
雨鈴が半ば呆れて言うと、志遠は柱にもたれたまま、目だけで笑った。
「この城ではな。矢は外れることもあるが、噂は必ず誰かに刺さる。……で?」
「で、とは?」
「本当のところは、どうなんだ。市井の女がひとり、皇子の宮に住まい、視察にまで付いていく。見初められた、以外の答えがあるなら、聞いてみたい。」
声はあくまで軽い。なのに、問いの刃だけが正確に急所へ伸びてくる。この男はいつもそうだ。
「……ご想像に、お任せします。」
「つれないな。」
志遠は肩を揺らして笑った。
「まあいい。ひとつだけ、忠告をやろう。この城で、噂は矢より人を殺す。お前に刺さった噂は、もう抜けん。……せいぜい、射られる前に気づくことだ。」
「気づけなかったら?」
「その時は」
布の上の目が、すっと細くなった。
「俺を頼れ。暇だからな。」
「……あなたは、いったい」
何者なんですか。そう問おうとした時には、志遠はもう軽く手を上げていた。
「またな、雨鈴。」
柱の陰から陰へ、足音もなく男は消えた。
残された雨鈴は、冷えた指先を握り込み――そして、ふと気づいた。
(……視れば、いいんだ)
あの男の素性が知りたければ、未来を視ればいい。
なぜ今まで思いつかなかったのだろう。目を閉じ、志遠の顔を思い浮かべる。
思い浮かべ、ようとして。――浮かばなかった。
布に覆われた口元。柱の陰の輪郭。笑う目。目、目……目しか、ない。
顔を見たことがあり、思い返せる相手なら、視られる。逆に言えば。
(私、あの人の顔を、一度も見たことがない)
この城でただ一人、私の目が届かない人。
夜風が、首筋を撫でた。冷えは、しばらく消えなかった。
翌朝、景辰の房に呼ばれた。
「今日から、振る舞いを改めろ。まず、贈り物が届く。突き返すな。」
「……はい。」
「月に幾度か、庭園と観劇に同伴させる。外では『殿下』と呼べ。目立つ場では、三歩下がって俺の左に立て」
「はい。」
「それから。」
景辰は文机の上の小箱を、無造作にこちらへ滑らせた。
開けると、銀の簪が入っていた。飾りは控えめな月の意匠で、けれど細工は素人目にも見事だった。
「見初めた女が髪飾りひとつ変わらんのでは、話にならんそうだ。蒼楽が言うには。」
「…………」
「形だけだ。挿しておけ。」
形だけ、と言った男は、こちらを見ずに書類へ戻っていた。
耳が、ほんの少し赤い気がしたが、指摘するとややこしくなるので黙っておいた。
――形だけ。そうよ、形だけ。
自分にもそう言い聞かせて、雨鈴は簪を受け取った。指先が、今度は冷たくならなかった。
その日の夕、雨鈴の房に一通の文が届いた。
白い上質の紙に、牡丹の透かし。差出人は、柳玉蓉。
「三日後、牡丹の園にて詩会を催しますので、ぜひ雨鈴様も――ですって。」
読み上げると、翠華の顔が曇った。
「お受けになっては、なりません。詩会は後宮の腕比べの場。歌も書も、幼い頃から仕込まれた方々の土俵にございます。市井の育ちと知れた雨鈴様をお招きになるのは、つまり……」
「公衆の面前で、恥をかかせるため。」
「……はい。お断りする口実は、私が。」
「翠華。」
雨鈴は文を置き、目を閉じた。
柳玉蓉。砂糖の衣の下に刃を隠した、あの美しい顔。――思い返せる。
三日後の、牡丹の園。
視えたのは、花の下の宴だった。玉蓉が扇で口元を隠し、笑っている。
周りの人影はいずれも靄で、声も届かない。聞こえるのは、玉蓉の声だけ。
「まあ……皆さま、ご覧になって。お可哀想に、筆の持ち方もご存じないのねえ。殿下はいったい、この方の何を見初められたのかしら?」
さざめく気配。扇の向こうの、勝ち誇った目。
そこで雨鈴は目を開けた。使ったのは、ほんの十秒。指先がわずかに冷える。
――筆の持ち方も、ご存じない。
なるほど、詩を詠ませて、書かせて、笑い者にする趣向らしい。三日後の玉蓉は、そのつもりでいる。
つもりで、いるだけだ。
「……ふふ」
「あ、雨鈴様?」
占い師を嘗めてもらっては困る。文字は商売道具だ。
客の生年も、卦の名も、帳面も、全部この手で書いてきた。
書の腕前までは望めなくても、恥をかく側は、視えた未来から降りてやればいい。
それに三日もあれば、翠華に詩のひとつも習える。
雨鈴は簪の箱の横に文を並べ、にっこりと笑った。
「お受けします、って返事を書いて。――受けて立つわ。」




