第二十二話:見初められた女
都へ戻って、五日が経った。
雨鈴は、豊陽へ発つ前と同じ、第三皇子の宮の客房にいた。部屋は塵ひとつなく整えられ、調度の位置さえ変わっていない。
見慣れたはずの部屋なのに、どこか座りが悪いのは――戻ってきたこの城が、発つ前とは違って見えるからだろう。
豊陽の戦場は、夜の路地と刑場だった。
こちらの戦場は、絹と香と、簾の向こうの視線でできている。
廊下ですれ違う女官の目。庭越しに交わされる扇の陰の囁き。
誰も刃は抜かないのに、誰もが常に何かを構えている。
あの事件を見てしまった目には、もう、それが「城の当たり前」には見えなかった。
そして五日目、ついに矢が飛んできた。
「――雨鈴様、でいらっしゃいますわね?」
庭の東屋に、茶の席が設えられていた。偶然を装った、あまりに手際のいい待ち伏せだった。
真ん中に座るのは、柳家の玉蓉。大貴族の娘で、景辰の側室の筆頭候補と目されている――と、これは昨日、蒼楽が面白がって教えてくれた。両脇に、取り巻きの娘がふたり。
「ぜひ、ご一緒に。」
断れる並びではなかった。雨鈴は観念して、末席に腰を下ろした。
「豊陽から、殿下とご一緒にお戻りになったとか。」
「ええ、まあ。」
「その前から、宮にお住まいでしたわよね。殿下がお倒れになった頃から。……失礼ですけれど、どちらのお家の方?」
「……しがない、市井の生まれです。」
「まあ。」
扇の陰で、笑みが交わされた。
「では、お役目は?女官のお召し物でもございませんし。」
「殿下のお身の回りの、その、雑事を。」
「雑事!」
玉蓉の声が、砂糖の衣を一枚だけ剥いだ。
「雑事のお方が、殿下の視察にまで同行なさいますの?」
言えない。占いのことも、豊陽のことも、少年に化けていたことも、何ひとつ。
「ご縁が、ありまして。」
「ご縁。」
「はい。ご縁が。」
「まあ……殿下も、お人が悪い。素性も明かせぬ者をお側に置くなど。ねえ、皆さま。妙な虫が付いたと、上の方々が案じられるのも無理はありませんわ。」
くすくすと、三対の笑みが揺れる。
どこの家の者か。役目は何か。いつから殿下と。どこで殿下と。なぜ殿下と。
同じところを回る問いが、四半刻。剥いても剥いても核心の出てこない女に、娘たちの棘は少しずつ露骨になっていった。虫。物好き。身の程。
――ああ、もう。
面倒くさい。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。雨鈴は茶碗を置き、にっこりと笑った。
「私、殿下に見初められて、連れてこられたんです。」
庭から、音が消えた。
扇が三本、止まっていた。
「……は?」
「ですから、その、見初め――」
言い直しかけて、雨鈴は自分の舌を噛み千切りたくなった。
違う。今のは言葉の綾で。素性を聞かれ続けるのに疲れて、一番説明の要らない札を切っただけで。
だが、遅かった。
玉蓉の顔から、砂糖の衣が全部落ちた。その下にあったのは、研いだばかりの刃だった。
「……そう。それは、ようございましたこと。」
茶会は、四半刻ともたずに散会した。
噂が後宮を一周するのに、夕刻までかからなかった。
曰く、第三皇子が市井から連れ帰った女は、殿下に見初められた寵姫である。
曰く、素性を隠すのは身分違いの恋ゆえ。曰く、豊陽への同行も殿下のたっての希望で――。
「あっはっはっは!」
蒼楽は、卓を叩いて笑い転げていた。
「見初められたって、自分で!!自分で言ったんですか!」
「うるさいわね……! ああ言うしかなかったのよ、占い師とも言えない、豊陽の件も言えない、だったらもう」
「いや、ないでしょう、他に幾らでも……ぶふっ、寵姫……」
「お笑いが過ぎます、蒼楽様。」
茶を替えに入っていた翠華が、静かに窘めた。それから、珍しく硬い顔のまま、続ける。
「……差し出がましいようですが、殿下。これは笑い事では済みませぬ。柳家は側室候補の筆頭のお家。あの方を敵に回せば、後宮の半分が敵に回ったも同じにございます。それにこの手の噂は、他の宮では色の話ではなく、政の話として聞かれます。第三皇子殿下が女人に執心と――そう聞いて、喜ぶ方々がおられます。」
後宮で生きてきた者の言葉には、蒼楽の笑いを引かせるだけの重さがあった。
部屋の主は、額を押さえて長いこと黙っていた。
やがて、景辰は顔を上げた。
「……否定は、しない。」
「殿下!?」
「否定すれば『では何者か』が始まる。素性を掘られれば、占いに行き着きかねん。……ならば、噂に乗る方がまだ安い。」
その目が、じろりと雨鈴を見た。
「そういうことだ。明日から、お前は俺に見初められた女だ。振る舞いは、追って指示する。」
「…………はい」
言い出したのは自分なので、雨鈴は小さくなって頷くしかなかった。
蒼楽が、また吹き出した。
夜気にあたりたくて、雨鈴はひとり、回廊に出た。
「――久しいな、雨鈴。」
柱の陰から、するりと声がした。
振り向く。口元を布で覆った、目だけの男が、軽く手を上げて立っていた。
「……志遠、さん。」
「豊陽帰りと聞いて、顔を見に来た。……いや」
布越しでも、笑ったのが分かった。
「面白い噂と一緒に、帰ってきたようだな。――景辰殿下に、見初められていたそうじゃないか。」
夜風は生ぬるいのに、指先だけが、すっと冷えた。




