第二十一話:ほどけた糸
再吟味の場は、その日の午後、役所の広間に設けられた。
壇の中央には景辰。鄭栄達は書記の隣に席を移され、口を挟むことは許されなかった。
袁仁傑の自白は調書に取られ、七人の襲撃者と周達の繋がりも、店の帳面から次々に裏が取れていった。
残るのは、裏帳簿――李清遠の一件だった。
呼び出された孫建文は、広間の中央で、深く頭を垂れていた。
「孫建文。裏帳簿の記録は、まことに李清遠の指示であったか?」
景辰の問いに、孫建文は答えた。
「……相違、ございません。」
声は掠れていた。
「あの帳簿は、李清遠様のご指示で、私が……」
「袁仁傑は、すべて話したぞ。」
「…………それでも、相違ございません。」
頑なだった。
袁が落ち、周達が繋がれ、鄭が壇から降ろされてもなお、この男は最初の嘘を抱えて沈もうとしていた。偽証を認めれば己も罪人となり、娘の縁談どころか、娘の明日まで潰れる――そう思い詰めた顔だった。
その時、広間の入り口が、ざわめいた。
「お、お待ちください、困ります。」
役人の制止を振り切って、若い娘が転がるように駆け込んできた。
息を切らし、髪を乱し、それでもまっすぐに壇の下の父を見つける。
「……杏花。」
孫建文の顔から、血の気が引いた。
「なぜ、ここへ……帰りなさい。ここは、お前の来る場所では。」
「仁傑様が、人を殺めて捕まったと聞きました。」
杏花の声は、震えていた。震えたまま、止まらなかった。
「広場の人たちが、言っていました。裏帳簿も、偽りだったかもしれないと。……お父さん。近頃ずっと、帰りが遅かったのも、ご飯が喉を通らなかったのも、夜中に一人で泣いていたのも――全部、それなの?」
「……杏花。」
「私、知ってたよ。お父さんが泣いてたこと。……祝言の支度が、嬉しくて気づかない振りをしてた。
ごめんなさい。だから、もう。」
娘は、その場に膝をついた。
「もう、嘘で私を守らないで。」
長い沈黙が、広間に落ちた。
やがて――孫建文の背中から、何かが抜け落ちた。
「………………申し上げます。」
絞り出された声に、書記の筆が構えられる。
「裏帳簿は……偽りにございます。李清遠様のご指示など、ございません。あれは、初めから李清遠様を陥れるために作られたもの。私は、記録したという偽りの自白を……ずっと、拒んでおりました。ですが、あの夜。」
あの夜。血に濡れた袁仁傑が、娘の婚約者が、震えながら家に転がり込んできた夜。
「趙明徳様が、参られました。『孫殿はよく働いてくれている。婿殿のことで失うには惜しい。手を貸そう』と。……その代わり、帳簿の件を認めよ、と。」
娘の幸せと、無実の人の罪。天秤にかけて、私は。
「……娘の祝言と引き換えに、李清遠様を売り、魏長順殿を見殺しにしようとした。この罪、いかようにも。」
孫建文は床に額をつけた。その肩に、杏花がそっと手を置いた。娘は泣いていた。
泣きながら、父の隣に並んで、同じように頭を下げた。
雨鈴は目を伏せた。牢で聞いた言葉が、ようやく答えに辿り着いていた。
――何をどうされたら、ああなる。
一番大事なものを、握られたら。
数日のうちに、沙汰は下った。
周達は襲撃の教唆と口封じの咎で捕縛、店は闕所。
袁仁傑は殺人の罪、しかし自首と再吟味への協力を酌まれ、死一等を減じての流罪。
孫建文は偽証の罪で職を解かれたが、強いられた事情を酌まれ、それ以上は問われなかった。
魏長順は放免され、李清遠の再吟味も決まった。
取り立ての帳面は封じられ、街には三年ぶりに、役所を怖がらない朝が来た。
そして――鄭栄達と趙明徳には、罪状が届かなかった。
「袁も孫も、趙の名は出した。だが、どちらも『言葉で唆された』だけだ。書き付け一枚、残っていない。」
景辰は、悔しさを隠さなかった。
「監督不行き届きの責を問い、中央へ上申する。二人とも官位を下げ、北の辺地へ転出――それが、届く精一杯だ。」
左遷の朝、旅装の趙明徳は、見送りもない役所の門前で一度だけ足を止めた。
通りの向こうの景辰へ、深々と、非の打ちどころのない礼をする。
それから、その細い目が、傍らの「使いの少年」の上で、一拍だけ長く留まった。
――値踏みでも、駒数えでもない。覚えておく、という目だった。
雨鈴の背を、冷たいものが走った。視てもいないのに、指先が冷えた。
その夕、死んだ男が倒れていた裏道に、小さな香炉が置かれた。
旅人は長いこと手を合わせ、立ち上がると、深く息を吐いた。
「……あなたの小刀、無駄にしませんでしたよ。」
仇は討たれ、言伝は果たされた。旅人は景辰の労いを固辞し、また埃をかぶった笠を被って、街道の向こうへ消えていった。
夜。雨鈴は月を見ていた。
街の件は、片付いた。明日には、景辰と共に都へ帰る。
この先もまだこの力を使うのだろうか。
……そこまで考えてから、ふと気づいた。
この力は、呪いだと思っていた。人の死と不幸ばかりを映して、私から居場所を奪っていくものだと。
けれどこの数日、この目は、人を生かすためにばかり使われた。
魏長順を。杏花の父を。――袁仁傑さえも。指先が凍えるたび、誰かの明日が繋がった。
悪くなかった、と思ってしまう自分が、少しだけ、こわい。
「――雨鈴。」
振り向くと、景辰が立っていた。
「明日、都へ発つ。……蛇の頭は、まだ落ちていない。鄭と趙の糸を引く者は、中央にいる。」
景辰は、月ではなく雨鈴を見て言った。
「この一件で終いにする気は、俺にはない。お前の目は、この先も俺のために使え。」
問いですら、なかった。
どこまでも尊大で、その実、返事を待つ子どもみたいな目をしていた。
雨鈴は月を見上げ、それから、ふっと笑った。
「……いいわ。ただし。」
「ただし?」
「私の占いは、高いわよ。」




