第二話:血の色と、選んだ一歩
角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは予想していた光景ではなかった。
路地の奥、薄暗がりの中に小さな影があった。
五歳くらいだろうか。
ボロのような衣をまとった女の子が、路地の壁に背をつけて膝を抱えている。
汚れた頬。乱れた髪。
けれどその目だけが、やけにまっすぐこちらを見ていた。
その子のすぐそばに、あの男が立っていた。
そして男の前に、黒い影が二つ。
刃が、夕暮れの光を鈍く反射している。
(来た。)
脚が止まる。
「待ちなさい!」
声が出た。
反射だった。
黒い影の一つが、こちらを一瞬だけ見る。
その隙に、男が動いた。
素早く身を翻し、女の子の前に立つ。
両腕を広げ、壁になるように。
「——っ、何してるの!」
思わず叫ぶ。
影が動く。
刃が男へ向かう。
「逃げて!」
駆け出していた。
間に合わない。
分かっていても、足が止まらない。
男の背中に手を伸ばした瞬間、男がこちらを振り返った。
目が合う。
「来るな。」
低く、静かな声だった。
有無を言わせない確かさがある。
その一言で、足が縫い止められた。
次の瞬間、鈍い音がした。
金属が、肉に沈む音。
「——っ!」
男の体が、わずかに揺れる。
それでも倒れない。
女の子をかばったまま、その場に立ち続けている。
背後から複数の気配が現れた。
統一された動き。
「——下がれ!」
鋭い声と共に、黒い影たちが弾き飛ばされる。
あっという間だった。
影は一瞬だけ抵抗し、そのまま路地の奥へ消えた。
静寂が落ちる。
護衛の一人が素早く周囲を確認し、別の一人が男へ駆け寄る。
その混乱の中で、雨鈴は気づいた。
女の子が、いなくなっていた。
さっきまでそこにいたのに。
路地の奥も、来た方向も、人影はない。
音もなく、どこかへ消えていた。
(……行ってしまった。)
考える間もなく、護衛の声が響く。
「景辰様!」
その名が、路地に落ちた。
男が、ゆっくりと壁に手をついた。
脇腹を押さえた指の間から、赤が滲んでいる。
「……大したことはない。」
「何をおっしゃいます、すぐに——」
「騒ぐな。」
短く制する。
それでも声に、さきほどの鋭さがない。
男の視線がこちらへ向く。
「……お前の家は、近いと言ったな。」
占い師は頷くしかなかった。
男を肩で支えながら路地を抜けた。
護衛が周囲を固め、無言でついてくる。
占い師の家は狭かった。
布を垂らした仕切りと、簡素な寝台と、道具だけ。
護衛たちにはさらに手狭に見えただろうが、誰も何も言わなかった。
男を寝台に横たえ、傷を確かめる。
深い。
けれど急所は外れている。
手当をしながら、護衛の一人が口を開いた。
「此度は、我々の不手際にございます。」
硬い声だった。
「景辰様をお守りできず——」
「お前たちのせいではない。」
男が静かに遮る。
「俺が、刺されるまで動くなと命じた。」
護衛は押し黙った。
占い師の手が、一瞬だけ止まる。
「……それ、本当なの?」
声が漏れた。
怒りなのか、安堵なのか、自分でも分からない。
「言ったでしょ、刺されるって。」
「確かめる必要があった。」
男が静かに遮る。
「何を。」
「お前の力が、本物かどうか。」
息が詰まった。
「……それで、自分が刺されることを選んだの?」
「ああ。」
あまりにも淡々とした言葉だった。
まるで、当然のことを説明しているように。
「馬鹿じゃないの。」
「そうかもしれないな。」
飄々とした答え。
なのに今は、全然違う重さがある。
護衛たちも手当をしながら、誰も口を挟まない。
この男に仕える者たちは、こういう無茶に慣れているのだろうか。
それとも、慣れるしかなかったのだろうか。
「……あの子。」
声が、思ったより小さくなった。
「さっき、路地にいた女の子。あなた、名前も知らないのに。」
男は答えない。
「護衛もいて、逃げることもできたはずなのに。なぜ。」
問いが漏れる。
男はしばらく天井を見ていた。
それから、静かに言った。
「目の前にいたから。」
それだけだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
占い師は手を止めた。
目の前にいたから。
たったそれだけの理由で、この人は体を張った。
打算も、見返りも、関係なく。
(……そんな人間が、いるのか。)
視線が、窓の外の暗い路地へ動く。
あの子は今、どこにいるだろう。
名前もなく、帰る場所もなく、また夜の路地に戻っていくのだろうか。
かつての自分と、重なった。
誰にも必要とされず、居場所もなく。
ただ、どこかに存在しているだけの子ども。
男の呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。
意識が落ちかけている。
「お前の名前は?」
唐突な問い。
「……言う必要ないでしょ?」
「ある。」
即答。
「これから長い付き合いになる。」
心臓が強く打つ。
「ならない。」
「なる。」
断言だった。
逃げ場がない。
「……雨鈴。」
気づけば、口にしていた。
「蘇 雨鈴。」
言ってから、遅れて後悔する。
男は小さく頷いた。
「そうか。」
「俺は、黎 景辰。」
言葉が、頭に入らない。
「……は?」
間の抜けた声が出る。
「冗談。」
「冗談に見えるか?」
見えない。
見えないから、困る。
この服装、この護衛たち、全部が繋がる。
「第三皇子?」
思わず呟く。
「そうだな。」
あっさりと返される。
それだけで、何かを決めたような顔をする。
「蘇雨鈴。」
名前を呼ばれる。
ぞくりとした。
「お前の力を、役立ててやる。」
「……役立てる?」
「俺の側で使え。無駄にはしない。」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
役立ててやる。
今まで何度、この力を持て余してきたか。
気味悪がられて、疎まれて、ただ厄介なだけだと思ってきた。
なのに。
「……信じられない。」
思わず口に出る。
「何がだ。」
「あんな無茶をする人間が、私の力を無駄にしないって言う。」
男はわずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
「矛盾しているか?」
「してる。」
「そうか。」
それきり、男は静かになった。
呼吸だけが、ゆっくりと続いている。
しばらくして、護衛の一人が低く言った。
「お眠りになりました。」
部屋に、沈黙が満ちる。
雨鈴は景辰の顔を見た。
眠っているだけなのに、まるで別人のように見えた。
昼間の、何もかもを見通すような目が閉じられると、ただの人間になる。
衣の質。所作。護衛の動き方。
景辰、という名。
全部が、ただ者ではないと告げている。
でも今は、傷を負って眠っているだけの男だ。
眠れなかった。
考えることが、多すぎた。
役立ててやる、と景辰は言った。
今まで誰も、そんな言葉をくれなかった。
気味悪がるか、怖がるか、利用しようとするか。
でもこの男は違う言い方をした。
無駄にしない、と。
それが本心なのか、ただの方便なのか、まだ分からない。
けれど。
目の前にいたから、と言いながら体を張ったこの男が、嘘をついているようには見えなかった。
窓の外の路地が、少しだけ白み始めていた。
あの子は今どこにいるだろう。
また明日も、あの路地で朝を迎えるのだろうか。
この力が、あの子のいる場所を少しでも変えられるなら。
この男の側で、それができるなら。
まだ答えは出ていない。
でも夜明けが近づいてくる頃には、ひとつだけ決まっていた。
コン、コン。
夜明けの光が差し込む頃、静かなノックの音がした。
護衛の一人が扉へ向かおうとする。
その前に、雨鈴は立ち上がっていた。
自分で扉を開ける。
外に立っていたのは、整った装いの男たちだった。
昨夜とは別の顔ぶれだが、同じ空気をまとっている。
「蘇雨鈴様。殿下のお迎えに参りました。」
雨鈴は一度だけ部屋を振り返った。
眠っている景辰。
静かに控える護衛たち。
そして、もう誰もいない壁際の空間。
それから前を向いた。
「私も連れて行って。」
打算がないとは言わない。
罪悪感がないとも言わない。
でもそれだけじゃない。
初めて、それだけじゃない理由が、胸の中にあった。
自然と前に足が出た。




