第十八話:廃廟の夜
亥の刻を前に、東の廃廟を望む林の中は、虫の音さえ息を潜めていた。
「――いい? 蒼楽。無茶はしないで。」
雨鈴が声を落とすと、蒼楽は軽く肩をすくめた。
「大丈夫ですって。囮なんて、要は先に着いて、偉そうに待ってればいいんですから。」
「……なんなら、視ようか。あなたの今夜を。」
言ってから、自分でも驚いた。誰かのために視たいと、自分から思ったのは初めてだった。
蒼楽は一瞬目を丸くして、それから、ゆっくり首を振った。
「やめときましょ。……自分の今夜を知ってたら、動きが鈍る。知らないから、全力で足掻けるんです。」
じゃ、行ってきます――と、軽い足音が闇に溶けていく。
「死ぬなよ。」
景辰の短い声に、闇の向こうで、はーい、と間延びした返事がした。
廃廟の中は、月の光だけが頼りだった。
破れた屋根から差す青白い光が、崩れた祭壇と、傾いだ柱を浮かび上がらせている。
蒼楽は祭壇の前まで進むと、埃を払って腰を下ろした。
――さて。
気配は、とうにある。梁の上に一つ。祭壇の裏に二つ。入ってきた戸の左右に、二つずつ。締めて七つ。
(雇われにしては、数を奮発しましたねえ。)
亥の刻を告げる、遠い鐘の音が響いた。
それを合図にしたように、闇が、動いた。
戸口から、祭壇の裏から、男たちが姿を現す。頭に布を巻き、得物は長脇差に棍。堅気の出で立ちではない。
「……よう。」
先頭の、頬に傷のある男が言った。
「お前が、文の主か。」
「さあ、どうでしょう。そちらこそ、どなたのお使いで?」
「答える義理はねえ。――小刀を持ってるか、確かめてから殺せと言われてる。出しな。楽に死なせてやる。」
蒼楽は、にっこり笑った。
「はい、今の、皆さん聞きましたね?」
「……あ?」
その瞬間、廃廟の外で、一斉に松明が燃え上がった。
破れ戸の隙間から、壁の崩れから、光が差し込む。廟をぐるりと囲む足音。抜き放たれる白刃の音。
「て、手前……!」
「第三皇子・景辰の名において告げる。」
朗々とした暁陽の声が、夜気を貫いた。
「その者への害意、一同しかと聞き届けた。神妙に得物を捨てよ!」
男たちが浮き足立つ。頬傷の頭目だけが舌打ちし、蒼楽へ斬りかかった――が、その刃は空を切った。
沈み込むように懐へ入った蒼楽が、男の腕を取り、床へ縫い付けるように転がす。
「はい、おしまい。」
残る六人は、雪崩れ込んだ兵に瞬く間に組み伏せられた。
誰一人、斬られてはいない。生かして捕らえよ、という景辰の命の通りに。
縄を打たれた七人が、月明かりの下に並べられた。
景辰は、頭目の前に立つと、その襟元を無造作に開いた。
仕着せの内襟に、焼き印がある。銭貨を象った、商家の印。
「……周達の店の貸し道具に、口入れの仕着せか。分かりやすいことだ。」
「し、知らねえ。俺たちは、金で雇われただけで――」
「誰にだ?」
頭目は、口をつぐんだ。月光の下でも分かるほど、顔から血の気が引いている。
雇い主より、皇子より、もっと恐ろしいものを知っている顔だった。
「まあいい。話は、ゆっくり聞く。」
景辰は身を翻し、雨鈴の傍らへ戻ってきた。
「――駒は取った。襲撃の現行犯、七人。周達に繋がる印付きだ。これは鄭にも握り潰せん。」
「じゃあ、魏長順は……」
「明日、この七人を突きつけて、刑の停止と再吟味を迫る。証言した民も、周達の睨みが外れれば口を開くだろう。」
初めて、光が見えた気がした。
死んだ男の小刀。旅人の言伝。娘の紅い布。全部が、ようやく報われる場所へ――。
「……どうした?」
「ううん。……うまくいきすぎてる気がして、少し怖いの。」
景辰は答えなかった。ただその目が、油断なく夜の街の方角へ向けられていた。
「向こうも、黙ってはいまい。今夜のしくじりは、じきに伝わる。……追い詰められた鼠が何を齧るか、だ。」
同じ夜、役所の奥。
廃廟の報せを受けても、その男は灯りひとつ増やさなかった。
長い沈黙のあと、県令・鄭栄達は静かに筆を取り、短く言った。
「……魏長順の刑を、明朝に繰り上げる。」




