第十六話:差出人のない文
「出番って……何をすればいいの?」
雨鈴が問うと、景辰は卓の小刀を指先で軽く叩いた。
「文を書く。――『小刀のことで、話がある。明日の夜、亥の刻、東の廃廟で待つ』。それだけだ。差出人は、書かない。」
「それを、袁仁傑に?」
「ああ。奴は今、小刀の行方だけが分からずにいる。始末しそこねた刃物のことを、名も知れぬ誰かが知っている――それを読んだ小心者が、どうすると思う?」
「……慌てて、相談しに行く。」
「そうだ。一人では何も決められん男だ。必ず、飼い主のところへ走る。そこで何を話し、どう出てくるか――その"作戦"を、こちらは先に頂いておく。」
景辰の目が、雨鈴を見た。
「顔は、覚えたのだろう」
「……ええ。いつでも視られる。」
「うわあ。」
蒼楽が、わざとらしく身を引いた。
「餌の文で走らせて、相談の中身を覗き見ですか。殿下、性格が悪い。」
「褒め言葉として受け取っておく。」
文は翌日の夕刻、物売りの子どもの手から袁仁傑の屋敷へ届けられた。
張り込みの者から「袁が文を開き、顔色を変えた」と報せが入ったのは、それから間もなくのことだった。
「頼む。」
景辰の声に、雨鈴は頷き、目を閉じた。
汗かきの、目の細い顔を思い浮かべる。まずは――五分後。
視えたのは、袁の私室だった。外出の支度を、ひどく慌ただしく整えている。畳んだ文を袖の奥へ押し込む手が、震えていた。
――出かける。追う。
次は、三十分後。
薄暗い、狭い箱の中。小さく揺れて、車輪の軋みが遠く届く。馬車だ。袁は膝の上で拳を握ったまま、何度も窓の外へ目をやっている。
指先から、冷たさが這い上がってくる。
構わず、さらに三十分後――。
どこかの室内だった。行灯がひとつ。袁の周りに、人の気配が三つ。だが、いずれも墨を流したような靄で、顔も装いも結ばない。声も、水底のようにくぐもって届かない。
聞こえるのは、袁の声だけ。
「しゅ、周達殿の、仰る通りに……は、はい……。」
「ですが趙様、文の主が何者かも、分からぬのです……そ、そのような……。」
「孫殿まで、お呼び立てして……申し訳、ありませぬ……。」
――周達。趙。孫。
「……明日の夜、東の廃廟に、人を伏せる……周達殿のお店の者を……は、はい。文の主は、その場で……」
――人を、伏せる。その場で。
そこまで聞いて、雨鈴は目を開けた。
指先はもう、氷のようだった。
使ったのは一分足らず。それでも肩に外套を掛けられるまで、自分が震えていることに気づかなかった。
視たものを、一言も落とさず報告する。
「周達……東市の豪商です。両替と口入れ――人貸しを、手広く。」
暁陽が即座に言った。
「趙明徳に、孫建文。……役者が揃いましたね。」
蒼楽が、口笛を吹く真似をした。
「で、明日の夜は廃廟に周達の店の者を伏せて、文の主をその場で――ってわけだ。怖い怖い。」
「予想通りだ。」
景辰は、驚いた様子もなかった。
「蒼楽。今から周達を張れ。店と屋敷、人の出入りを全て拾え。ついでに作戦会議も聞いてこい。」
「はいはい。」
「暁陽。明日の昼までに、周達、趙明徳、孫建文――三人と会う段取りを組め。名目は任せる。商人なら品を購う話でいい。役所の二人には、魏長順の件の照会でいい。」
「……御意。ですが、会って、何を?」
「何も。世間話で構わん。」
景辰は、隅に座る雨鈴へ顎をしゃくった。
「雨鈴に、顔を見せる。それだけでいい。――顔さえ覚えれば、こちらは三人の"先"を、いつでも覗ける。」
一拍置いて、蒼楽と暁陽が同時に雨鈴を見た。
「……そりゃあ。」
蒼楽がしみじみと言った。
「敵に回したくないなあ、雨鈴ちゃん。」
二人が出ていき、部屋には景辰と雨鈴だけが残った。
灯りの油が、小さく爆ぜる。
「……ねえ、景辰。」
「なんだ?」
雨鈴は、まっすぐに景辰を見た。
「私、この人にも会いたい。」
景辰はしばらく、雨鈴の顔を見ていた。
やがて、ふっと目元を緩める。
「……考えておく。段取りは、こちらでつける。」
窓の外で、夜の風が鳴った。
明日の夜まで――あと、一日。




