第十二話:街の空気
二日目も三日目も、似たような光景が続いた。
街道の脇に集落が見えるたびに、景辰の眉間に皺が寄る。
それを雨鈴は、馬の上からそっと見ていた。
崩れた屋根。
痩せた田畑。
街道を歩く人々の、どこか疲れた足取り。
「また、か。」
景辰が小さく呟く。
独り言のようだった。
誰かに向けた言葉ではない。
でも雨鈴には聞こえた。
「この辺りは、景辰の管轄?」
「いや。別の皇子の管轄だ。」
景辰の眉間の皺は、深くなった。
蒼楽が前方から声をかけてくる。
「殿下、もう少しで今日の宿場です。」
「分かった。」
短い返事だった。
いつもより、声が重い。
雨鈴は街道の先を見た。
知っていることと、見ることは違う。
昨日、自分が言った言葉だ。
でも今日は、景辰がそれを全身で感じているように見えた。
頭で知っていた景色が、三日かけて目の前に広がっていく。
その積み重なりが、この男の何かを変えているのかもしれない。
(……変わったところで、どうなるか。)
すぐに打ち消した。
余計なことを考えても仕方がない。
五日目の昼過ぎ、目的の街「豊陽」が見えてきた。
思っていた以上に大きかった。
城下ほどではないが、街道沿いに商家が並び、市の声が遠くから聞こえてくる。
人の行き来も多い。
「賑やかだね。」
思わず漏らすと、蒼楽が頷いた。
「ええ。この辺りでは一番大きな街ですしね。」
「何か思ってたより普通に見えるけど。」
「そうですね。」
蒼楽の声が、わずかに慎重になった。
「普通に、見えますね。」
その言い方が引っかかった。
景辰は何も言わず、街を見ている。
その目が、静かに何かを拾っている。
「宿を取ろう。動くのはそれからだ。」
「身分は?」
「商人として通る。」
蒼楽が軽く手を上げた。
「その辺りは任せてください。こういうの、慣れてますんで。」
「頼む。」
宿は街の中ほどにある、こぢんまりとした場所だった。
目立たない。清潔。人の出入りが多すぎない。
蒼楽の選択は、的確だった。
部屋に入り落ち着くと、景辰が地図を広げた。
「まず、街の様子を掴む。」
「どうやって?」
「市を回れ。」
「私が?」
「商人の連れの役だ。一人の女が市を見て回る方が自然だろう。」
確かに、凛とした景辰や金髪の蒼楽が動き回れば目立つ。
「何を見てくればいい?」
「気になったことを全部。先入観を持たずに見てこい。」
「分かった。」
「くれぐれも気をつけろ。」
「いつもそれしか言わないよね。」
「お前がいつも心配なことをするからだ。」
思わず口元が緩んだ。
「行ってきます。」
市は、宿から少し歩いたところにあった。
活気がある。
声が飛び交い、人が行き交い、色とりどりの品が並んでいる。
最初はそう思った。
でも、歩き始めてすぐに、何かがざわついた。
(……何だろう。)
占い師として客を見てきた目が、何かを拾っている。
もう一度、ゆっくりと市を見渡す。
品揃えは豊富だ。
布、野菜、焼き物、香辛料。
声も賑やかだ。
だが、客が値切っていない。
値切れない、という方が正確かもしれない。
商人が値段を言う。客がそれをそのまま払う。
当然のように。
(おかしい。)
市というのは、値切る文化がある。
裏路地の小さな市でも、複数購入するからまけてくれという声が聞こえていた。
それが、ここではない。
次に値段を見た。
高い。品の質に対して、明らかに高い。
それでも客は払っている。
商人の顔を見る。
笑っている。声も明るい。
でも、目が笑っていない。
愛想のいい顔の下に、疲弊が滲んでいる。
(慣れた顔だ。)
占い師の店に来る客も、語り始めはこういう顔をしていた。
本当のことを隠しながら、表面だけ取り繕っている顔。
市の端まで歩いた時、一人の男が目に入った。
普通の身なりで、市をぶらぶらと歩いている。
でも、その目が動いている。
商人と世間話をする客のように見える。
だが商人の表情が、一瞬だけ固まった。
男は何事もなかったように歩き去る。
少し経って、別の商人のそばで立ち止まる。
短い会話の後、また商人の表情が固まる。
(あれは。ただの冷やかし客に見えるけど…)
一人の男が話しかけると、行く先々の店主の顔が固まる。
ある店では一人の老いた商人が、布を畳みながら独り言を言っていた。
「今月も足りんな……」
聞こえなかったように、通り過ぎる。
雨鈴は近くの野菜の束を手に取った。
値段を確かめるふりをしながら、視界の端で男の動きを追う。
男は市を一周して、路地の奥へ消えた。
入れ替わるように、別の男が市へ入ってくる。
交代だ。
常に誰かが市を見ている。
でも、同じ人間が長くいないから目立たない。
(よく考えられている。)
宿へ戻った時、景辰はまだ地図を見ていた。
「どうだった?」
「一見、普通の市だった。賑やかで、品も揃ってる。でも客が値切らない。値切れない空気がある。値段も高い。」
景辰の目が、わずかに動く。
「商人の顔が、笑ってるのに笑ってない。目が死んでる。」
「他には?」
「普通の人に見えるけど、交代で市を見張ってる者がいる。同じ人間が長くいないから気づきにくい。」
景辰は地図から目を上げた。
「よく見ていた。」
蒼楽がお茶を置きながら言う。
「雨鈴ちゃん、さすがですね。」
「色々な街を転々としてきたからね。」
そう答えてから、少しだけさっきのことを思い出す。
これまでにも値切れない市はあった。
そういう場所では、必ず見えないところで誰かに監視されている感覚がある。
弱い人間は搾取される。当たり前だと思っていた。
でも、当たり前であっていいのか。
「暗くなってきましたね。俺も雨鈴ちゃんに負けないよう偵察にいってきます。」
景辰が地図を畳んだ。
「雨鈴。お前は今夜は休め。」
「分かった。」
部屋へ戻っても目に焼き付いている。
笑っているのに笑っていない商人の目。
自然を装いながら市を見張る男たちの動き。
値切ることすらできない客の背中。
気分転換のつもりで来た。
でも、もうその気持ちはどこかへ消えていた。




