第十三話:疑いの糸
翌朝、景辰が呉暁陽を呼んだ。
部屋に入ってきたのは、二十歳そこそこの青年だった。
背は高くないが、目が鋭い。
緊張しているのか、背筋が少し固い。
「久しぶりだな。」
景辰が言う。
「はい。ご無沙汰しております。」
暁陽は頭を下げた。
「こちらは蘇雨鈴。俺の客人だ。」
「呉暁陽と申します。」
雨鈴に向かって一礼する。
真面目そうな青年だった。
「あなたは、景辰殿下の部下?」
「はい。この街に残っております。」
「李清遠殿が失脚した時も?」
暁陽の目が、わずかに揺れた。
「……はい。私はまだ若く、関わりが浅かったため、お咎めを受けませんでした。」
その声に、複雑なものが滲んでいた。
助かったことへの後ろめたさ。
それでも残って何かをしようとしている意志。
「今の状況を話せ。」
景辰が促す。
暁陽は一度息を整えてから、口を開いた。
「現在この街を牛耳っているのは、鄭 栄達という男です。三年前に赴任してきた直後から実力を発揮し、李清遠殿が失脚した時に副県令だっため、その後は県令を引き継ぎ、現在に至ります。」
県令。
豊陽の街を治める長官だ。
「鄭の動きは?」
「表向きは真面目な役人として振る舞っています。ですが権力を持ち始めてからは、独自の取り立てをしていたようです。」
「独自の取り立てとは?」
「正規の税とは別に、商人から月ごとに金を取っています。払えない者は商売を続けられなくなる仕組みです。」
「市の監視も鄭の指示か。」
「はい。右腕の役人、趙 明徳に命じて、交代で市を見張らせています。表向きは市の警護という名目で。」
雨鈴は昨日の光景を思い出した。
自然に溶け込んでいた男たち。
あれは警護という名目だったのか。
「そして——」
暁陽の声が、少し重くなった。
「李清遠殿は鄭栄達の不正を疑っておられましたが、逆にその不正は李清遠殿がしていたということにされたのです。」
「どうやって?」
「裏帳簿が李清遠殿の部屋から発見され、その帳簿を記録していた孫 建文も李清遠殿の指示だったと自白したのです。」
「そんな…」
思わず雨鈴は声を上げる。
暁陽は続ける。
「他にも鄭栄達の不正を疑って動いていた者が数人おりました。」
「今はどこにいる?」
「全員収監されています。そのうちの一人、魏 長順は今回、民が役所へ押しかけた際に、民を殺めた者とされています。」
部屋の空気が重くなった。
「無実か。」
「おそらく。ですが証拠がありません。」
景辰は何も言わなかった。
その沈黙が、怒りに見えた。
「あと何日で刑が執行される?」
「三日です。」
三日。
雨鈴は息を呑んだ。
「暁陽。」
景辰が静かに言う。
「はい。」
「鄭栄達に取り次いでくれ。魏長順に会いたい。」
暁陽の目が、わずかに揺れた。
「……鄭栄達が素直に応じるでしょうか。」
「応じさせる。至急頼む。」
「承知しました。」
暁陽は素早く部屋を出た。
蒼楽が口を開く。
「殿下、雨鈴ちゃんはどうしますか?女人は入れません。」
「使いの少年に変装させる。」
雨鈴は思わず自分の姿を見た。
「少年?」
「文句があるか。」
「……ない。」
翠華がいれば上手くやってくれたかもしれない。
でも今は自分でやるしかない。
翠華が事前に用意してくれた替えの衣の中に、地味な男物があった。
髪を隠し、帯を締め直す。
「どう?」
蒼楽がじっと見た。
「……なんとかなりますね。」
景辰は一瞥しただけで何も言わなかった。
それが一番堪えた。
暁陽の取次は、思ったより早かった。
役所の応接間に通されると、鄭栄達が満面の笑みで待っていた。
「これはこれは、殿下。本日はどのようなご用件で。」
「魏長順に会いたい。」
鄭栄達の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「魏長順は、重大な罪を犯した者にございます。今更お会いになっても——」
「俺が会いたいと言っている。」
静かな声だった。
でも、その一言で部屋の温度が変わった。
鄭栄達は視線を泳がせた。
「しかし、殿下。あの者は民を殺めた証拠もございますし、複数の民の証言も——」
「その証言についても確認したい。」
「は、はい。ですが——」
「鄭県令。」
景辰の目が、まっすぐ鄭栄達を見た。
「俺は第三皇子だ。この豊陽は俺の管轄内にある。管轄内で起きた事件を確認する権限は、俺にある。」
沈黙が落ちた。
鄭栄達は深く息を吸い、それから深く頭を下げた。
「……承知いたしました。ご案内いたします。」
その背中を見ながら、雨鈴は使いの少年として無言でついていく。
鄭栄達の首筋に、汗が光っていた。
牢は役所の奥にあった。
石造りの廊下を進むにつれ、空気が冷たくなる。
案内の役人が扉の前で立ち止まった。
「こちらにございます。」
扉が開く。
薄暗い部屋の中に、男がいた。
四十がらみ。
痩せている。
だが、その目はまだ死んでいなかった。
「魏長順か。」
景辰が問う。
男は顔を上げた。
景辰を見た瞬間、目が大きく開いた。
「……殿下。」
かすれた声だった。
「話を聞きに来た。」
「殿下が、直々に——」
魏長順の目に、涙が滲んだ。
「私は、やっておりません。」
「分かっている。だから来た。」
その一言で、魏長順の肩から力が抜けた。
「あの日のことを話せ。」
魏長順は頷いた。
「あの日、私は午後から民の意見を聞く当番でした。時間になり登庁すると、突然役人たちに取り囲まれ、民を殺めた者として捕らえられました。」
「殺害現場には行っていないのか。」
「はい。当番の時間まで自宅におりました。なのに——」
「民の証言では、お前の人相と一致したそうだが。」
魏長順の顔が、絶望に歪んだ。
「そんな……」
「落ち着け。」
景辰が静かに言う。
「証言した民には、直接話を聞く。」
「しかし、もうあと三日で——」
「三日あれば十分だ。」
その言葉に、魏長順は再び涙をこらえた。
雨鈴は少しだけ考えてから、口を開いた。
「一つ聞いてもいいですか?」
魏長順が雨鈴を見る。
使いの少年と思っているのか、少し不思議そうな顔をしている。
「あなたが登庁した時間、その前の当番は誰でしたか?」
魏長順はわずかに考えた。
「……袁仁傑です。私の前の当番は、袁仁傑でした。」
部屋の空気が、静かに変わった。
景辰がこちらを見た。
その目に、何かが光った。
「袁仁傑。」
「はい。あの日の朝番は袁仁傑で、私が昼番でした。……実は私も、袁仁傑が怪しいと思っております。殺害が起きたのは、ちょうど朝番と昼番の引き継ぎの時間帯です。なのに調べも受けていない様子。」
雨鈴は景辰を見た。
景辰は小さく頷いた。
「魏長順。必ず助ける。」
景辰がそう言うと、魏長順はうつむいた。
肩が、静かに震えていた。
牢を出た景辰が、案内の役人に言った。
「このまま他の者にも会わせてもらう。」




