第40話 魔王、国の目と向き合う
「ご報告を。寄進帳、五十万を越えましてございます」
朝餉の席で、ヴェザリウスが帳面を繰った。五十万。
「越えたか」
それだけ返して汁を啜る間にも、ガルドバーンは三杯目の飯に取りかかっておった。あれはあれで正しい朝の姿よ。
箸を置いてから、ふと思うた。そういえば、ここ幾日まともに眠っておらぬ。夜半は見回り、明け方は欄の始末で、横になった覚えもほとんどない。それでも体はどこも重うなかった。まあ、戦時はいつもこうであった。
その日の昼、帳場の男から報せが来た。特異なる事を扱う国の連絡役所から、担当の官が事務所を通して正式に面会を申し入れてきたという。
目安箱の役人が、直々にか。
余は即座に諾と返した。ヴェザリウスが何か言いかけて、やめた顔をしておったが、諾は諾である。民の訴えを受ける箱の番人が、自ら足を運ぶというのだ。王が会わずして誰が会う。
面会は四十九日目の昼下がりと決まった。
場は帳場の一室である。余は常のとおり顔の覆いをつけ、卓のこちらに、帳場の男とヴェザリウスを従えて座った。帳場の男は茶だけ整えると「私は控えます」と言い、壁際に退いた。
来たのは一人であった。
二十代の後半ほどの男である。入り口で一礼し、卓の前で一礼し、腰を下ろすより先に、小さな札を両手で差し出した。
「特異事案連絡室の、真木と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
札には役所の名と『真木』とだけあった。
男が手帳を開く。その手の速さに、見覚えがあった。柵の外で、終いまで帳面を閉じなんだ男である。なるほど、あの帳面はここへ帰っておったか。
「本日伺いたいことは、二点です。一点目、獣について。二点目、その現れ方について。順に伺います」
男は日付と場所を続けざまに挙げた。手帳を見もせずに、である。先月の末から市中で獣の出た場所を、古い順にひとつずつ。
「あなたはそのほとんどの現場に居合わせています。そこで一点目。現場を見続けてきた立場から、獣についての見解を伺いたい」
「うむ。良い問いである」
余は身を乗り出した。かねて、誰か聞く者に言うておきたかったことである。
「まず、獣は柔らかいほうへ行く。人の多いほう、逃げる者のあるほうへだ。ゆえに囲む折は、追うてはならぬ。行き先を先に塞げ。次に刻限だ。あの手の獣は明け方と日暮れに動く。土の温みの変わる刻である。市中の見回りは、そこを厚くするがよい。それから鼬。あれは群れの頭から片せ。頭が落ちれば残りは散る。散らせてから拾え。熊は逆だ。散らすな。何より、獣の目を民から切らせるな──」
真木の筆が走る。頁が変わる。また走る。問いはひとつしか発しておらぬのに、筆のほうが余の倍は喋っておった。
「──以上が、差し当たりの心得である。なんなら書付にして渡そうか」
「ぜひ」
と即答してから、真木は一拍おいて、
「……いえ。それは手続きの都合がありますので、また改めて。二点目です」
手帳の頁が戻された。
「獣の目撃は、あなたの周辺に集まっています。ご本人として、心当たりはありますか」
「余の見回りの道筋と、重なっておるだけであろう。獣の出そうな場所を歩けば、獣に会う。猟師が山で獣に会うのと同じことだ」
「なるほど。見回りの道筋は、どなたが」
「余が決める」
「基準は」
「勘だ」
筆が、初めて止まった。
「……個人的には、勘であれだけ先回りできるなら、もう勘ではないと思います。条件──いえ、傾向を書き出せれば、次の場所も読めるはずで……失礼しました。事実確認に戻ります」
声は元の型に戻った。
「本日の確認は以上です。ご協力ありがとうございました」
真木は手帳を閉じて立ち、入り口で一礼した。
それから、思い出したように振り返った。
「ヴァルさん。配信は、全部拝見しています」
それだけを置いて、男は去った。
……見ておるのか。ならば都合が良い。いまの獣の心得も、辻で流しておけば二度手間が省けたな。
隣でヴェザリウスが、静かに額を押さえておった。
その夜である。
六畳に、主従三人で座った。幾枚も重ねるには卓が狭く、ヴェザリウスは床に紙を広げた。この町の地図の上に、薄い写しが幾枚も重ねてある。
「昼のお席の、二つ目の問いでございますが。実は、私も同じ問いを検めておりました」
一枚目は、いつぞやひよりがつなぎの声で報せてくれた、触れ役の板の図。あれの写しであるらしい。二枚目は、国の窓口が公に出した場所の書き抜き。三枚目は、ヴェザリウス自身の足で検分した、口の開いた跡。
「いずれも表にあるものと、私の足でございます。盗み見はしておりませぬ」
「うむ」
三枚を重ねると、口の跡は町中に散っておるように見えて、散っておらなんだ。古い跡ほど内に、新しい跡ほど外に。すべての印がゆるい輪をなし、ある一角を囲んでおる。
「城攻めの絵図でも、これほど素直な囲みは滅多に見ませぬ」
と、ヴェザリウスは言うた。それから、静かに問うた。
「陛下。この国で最初に目を覚まされたのは、どちらで」
「……路地だ。狭い、裏の路地であった」
場所を告げると、ヴェザリウスの指が地図の上を滑り、輪の真ん中で止まった。
同じ所であった。
「怪異の中心は、陛下の落ちられた場所かと。……確証は、ございませぬ」
余が落ちたことで、あの口どもが開いたのか。だとすれば、これまで追うてきた獣も、この国の騒ぎも、始まりは余にある。余が、この国の平和を壊したことになる。
ガルドバーンは何も言わなんだ。腕を組み、地図を睨んでおる。ヴェザリウスも続きを足さぬ。
余は輪の真ん中を指で一度叩いた。
「壊したのが余ならば、直すのも余の政だ。明日から、この路地は余が検分する。臣任せにはせぬ。余もこの目で見る」
「御意」
と応じ、二人は同時に頭を下げた。
二人が下がったあと、余は一人、地図の前に座っておった。
調べる場所がひとつ増えただけよ。そう思うて地図を畳んだところで、胃のあたりが、きゅうと縮んだ。
痛みというほどのものではない。だが剣の傷とも、飲み過ぎの重さとも違う。
余は胃のあたりに手を当てて、しばし考えた。
ヴェザリウスの申しておった胃とは、これのことか。
得心はしたが、治し方までは聞いておらぬ。余は胃を押さえたまま、灯りを消して横になった。




