第39話 魔王、隠さずに勝つ
土の裂ける音は、思うたより低かった。
柵の向こうで芝が持ち上がる。昨夜の報せを受け、四十七日目の朝から二将と手分けして見回っておった、その最中である。
持ち上がった芝が割れ、口が開いた。これまで見たどの口よりも大きい。荷車がそのまま呑まれる幅である。育つ育つとは聞いておったが、一晩でここまでとは。
最初に出たのは鼬どもであった。地獄鼬が十匹ばかり、口の縁からこぼれるように散る。
次いで、縁に黒い爪がかかった。
地獄熊である。
肩が出て、頭が出て、昼の光の下に全身が立った。小屋ほどもあるが、まだ老いておらぬ。あの嵩で走るのだ。国許では冬でも、こやつの通り道だけは塞がなんだ。
そして、昼であった。
道には公園帰りの親子がおる。買い物袋を提げた者がおる。立ち止まって板を構え始めた者が、もう幾人もおる。隠形で包むには、口も、獣も、民も、何もかも広すぎた。
民が目に入った。隠すのはやめだ。余は二人を呼んだ。
「ヴェザリウス、民を頼む。ガルドバーン、鼬を大物へ寄せるな。大物は、余が場を作る。仕留めはおぬしだ」
「御意」
返事はひとつに聞こえた。動きはふたつであった。あの二人は、こういうときだけは息が合う。
ヴェザリウスは民のほうへ歩きながら、もう声を張っておった。
「お客様、恐れ入ります。ご覧になる方は柵のこちら側までとさせていただきます」
「これ、撮ってもいいんですか」
「柵のこちら側からでしたら。はい、お子様はお手元へお願いいたします。お急ぎの方はそちらの道が空いております」
慇懃で、早口で、よどみがない。民は疑いもせずに列を作った。あの様子では、催しの係の者とでも思われておるに違いない。冥智将が、係。本人には言わぬでおく。
鼬が三方に分かれ、うち二匹が人垣の側へ抜けようとした。抜けられなかった。間にガルドバーンが立ったからである。素手だ。あの男は、得物を取るより素手のほうが速い。鼬が跳ぶたび、音より先に落ちる。派手さはない。ただ、獣の側から見れば、行きたい方角のすべてに同じ男がおるのだ。それが一番おそろしいのだが。
余は熊と向き合うた。
熊は余を見ておらぬ。民のほうを見ておる。獣とはそういうものだ。柔らかいほうへ行く。
行かせぬ。
余は掌を開き、練った力を一度、検めた。多い。半分に絞る。もう一絞り。……この一拍を覚えるまでに、余は四十日と、花を一輪、要した。
地を打つ。
光の帯が熊の四方から立ち上がった。帯は頭上で噛み合い、逃げ道が閉じて、ひとつの檻になる。民を守る壁ではない。熊を内に閉じるための檻だ。
かつて同じ系の術を張ったとき、術は指の先で軋んだ。いまは、鳴りもせぬ。立てと思うただけで、立つ。それだけのことが、ずいぶん遠かった。
熊が吼え、体当たりをした。帯は撓みもせなんだ。角も瞳も、まだ隠れておる。よし。
「ガルドバーン」
「ようやく某の番でありますな。お任せあれ」
鼬を片づけ終えた男が、駆けながら帯を潜った。余の檻は、余が通すと決めた者だけを通す。男は熊の懐へ一度沈み、拳を突き上げた。それで終いである。小屋ほどの獣が、地響きひとつでくずおれた。
余が追うまでもなかった。仕留めを任せたとはいえ、もう少し何かあると思うではないか。
熊が灰に崩れ始めるのと、ヴェザリウスが袖を払うたのは、ほぼ同時であった。
檻の内に、朝霧のような白が満ちた。ものの数瞬で霧は薄れ、晴れたあとには、獣も、檻も、何も残っておらなんだ。芝がめくれ、柵が少し倒れておるだけである。
「片付けまで早いの、何?」
「え、もう終わり? 種明かしは?」
民の声は、そんな調子であった。余は民のほうへ向き直った。
「怪我はないか」
「大丈夫です」
「……そうか。ならば良い」
それだけである。芸とも、まことの術とも言わぬ。問われぬことは、差し出さぬ。昨日、軍師に習うたばかりの手である。習うた翌日に使う日が来るとは思わなんだが。
懐の板が短く震えた。ひよりからの文である。
《こっちは任せて。切り抜きと告知、回します。そっちは皆さんのことだけ見てて》
《あと、終わったら全部聞くからね》
手短で、的確で、最後の一行だけ怖い。余は板を懐へ戻した。
欄は、そのころにはもう祭りであった。辻を開いてもおらぬのに、余の名のついた切り抜きが勝手に立ち上がり、伸びてゆく。
《昼の緑地のやつ、居合わせたんだが》
《本物の熊……ではないよな?》
《みんなが熊熊言い続けた結果、本当に熊が来た説》
《例の人の企画だろ。看板が出てないだけで》
《企画であんな綺麗に人を捌ける?》
やがて《どっちにしてもすごい》が、幾つも並んだ。……またそれで済ませるのか。いや、余は助かるが。
人垣が崩れ、めいめいが板を掲げて散っていった。拍手をする者、連れと騒ぐ者、まだ撮り続ける者。
その端に、一人だけ、違う男がおった。
逃げもせず、撮りもせず、拍手もせず、初めから終いまで、手元の帳面に何かを書きつけておった男である。歳のころも生業も知れぬ。ただ、書く手が最後まで止まらなんだことだけは、遠目にもわかった。
騒ぎが引くと、男は帳面を閉じた。
男は余の立つ方角へ向き直り、深々と腰を折った。
顔を上げたその男が人波へ紛れて見えなくなるまで、余はその背から目を離さなんだ。




