第4話 サボリーマンは、報連相ができない
生まれて三か月ほど。首がすわってきた。
見える範囲がぐっと広がった。起きていられる時間も、少しずつ延びてきた。天井の木目はもう見飽きた。これからは人間の時代だ。分析がはかどる。
エリクの分析は終わった。残りは三人だ。
まずは、長女。四歳。
長女は、わんぱくだ。木に登る。柵を越える。鶏を追いかけ回す。
「ロッテ! 降りな!」
母親の雷が落ちても、三歩あるけば忘れている。
ところが、エリクに言われると、ころりと素直になる。
「降りて」
「はーい!」
母親の雷を三回聞き流した木の上から、エリクのひとことで一回で降りてくる。エリクのことを心から尊敬しているらしい。最近はエリクのまねもして、腰に手を当てて次男に「おりて」と命令している。次男は、降りない。
そんなロッテの最近のお気に入りは、おままごとだ。
配役は決まっている。ロッテがお母さんで、わしが赤ちゃん。配役に異論はない。わしは、本物の赤ちゃんなので。
「はーい、アインちゃん、ごはんでちゅよー」
ちなみに、この「ちゅ」は母親の口ぐせではない。どこで覚えてきたのかは、謎だ。
ロッテはわしをかごから引っぱり出してひざに乗せると、自分の胸にわしの顔をぎゅうぎゅう押しつけてきた。
……うん。
痛い。
骨が当たる。力が強い。息ができない。
「いっぱいのんでねー。……あれ? のまない。アインちゃん、おなかいっぱい?」
おなかいっぱいなのではない。酸欠なのだ。
おままごとにはごちそうの場面もある。
「はい、アインちゃん、おだんごでちゅよー」
差し出されたのは、泥だんごだった。よくこねてあって、表面がつやつやしている。無駄に完成度が高い。
口に押しこまれる寸前で、横から伸びてきたエリクの手が、すっと泥だんごを取り上げた。
「それは、食べものじゃない」
「はーい」
……エリク、ありがとう。命の恩人だ。
ある日、ロッテと次男が、わしの取り合いを始めた。
「アインちゃんは、あたしの赤ちゃん!」
「さるは、おれのこぶん!」
左右から腕を引っぱられる。痛い。わしは綱引きの綱ではない。
そこへエリクがやってきて、指を一本立てた。
「朝はロッテ。昼からは、おまえ」
「はーい」
「……はーい」
争いは一瞬で終わった。
……エリク、アサインまでできるのか。
かわいいもんだ。
……わしのほうが、若いけど。
◇ ◇ ◇
次は、次女。三歳。
ロッテはわしを「アインちゃん」と呼ぶ。次男は「さる」と呼ぶ。エリクは「アイン」と呼ぶ。次女は、まだ一度もわしを呼んだことがない。
次女はロッテとは正反対の静かな子だ。いつも部屋のすみに座って、炭のかけらで板切れや床に何かを描いている。ほとんどしゃべらない。そのかわり、よく見ている。家族の誰かが落ちこんでいると、黙ってその人の絵を描いて、そっと横に置いていく。
絵を描いていないときは、本を読んでいる。
この家に本は四冊しかない。父親の帳面と、古い暦と、分厚くて誰も開かない本と、表紙のとれた昔話の本。どれも棚のいちばん上に大事にしまってある。
「リーゼ、今日はどれだ」
エリクに聞かれると、次女は黙って一冊を指さす。下ろしてもらった本を、リーゼは床の上に広げる。三歳の体には大きすぎて、ひざに載せると顔が隠れる。指で一行ずつなぞりながら、口だけが小さく動いている。
……読めているのか? 三歳だぞ。
ときどき、指が止まる。するとリーゼは本を抱えてエリクのところへ行く。
「これ、なんてよむの」
リーゼの声を、わしはそれで初めて聞いた。家族でいちばんしゃべらない子が、いちばんよく口にするのが、そのひとことだ。
エリクが読んでやると、リーゼは小さくうなずいてすみに戻っていく。同じ本の、同じところを、もう一度なぞるために。本は四冊しかないので、もう何周目かも分からない。それでもリーゼは毎回はじめて読むような顔をしている。
前世の言葉でいえば、文系だ。それも、筋金入りの。
ある日、おままごとに飽きたロッテが、わしをリーゼの隣に置き去りにしていった。おかげでリーゼの絵をじっくり見ることができた。
……うまい。
うますぎる。
板切れの上に父親の顔があった。眉間のしわ。ひび割れた唇。疲れているのに、どこかやさしい目。炭一本で、そこまで描いてある。
その隣には、あの「浮いている、なんぞ」があった。台の厚み、上に載った鍬の角度、宙に浮いた影まで。あの夜さわれなかった台の形を、わしはここでようやくじっくり見ることができた。
三歳の絵ではない。前世の美大生でも、ここまで描けるやつはそういない。
絵が描けて、物語が好き。
……この子に、漫画を描かせたら、どうなる。
この世界にはたぶん漫画はない。コマ割りも、吹き出しも、効果線も。あれを教えたら、この子ならとんでもないものを描くんじゃないか。
流行る。絶対に流行る。おもろそう。
わしがマネジメントして、売りこんで――
……いや、面倒だな。
やめとこう。
数日後、リーゼがわしの絵を描いた。
板切れの上の赤ん坊は、ふくふくした頬に、小さな手。そこまではいい。問題は、顔だった。
描かれた赤ん坊はなぜかものすごく疲れた顔をしていた。人生にいろいろあった顔だ。徹夜明けの、窓際のおっさんの顔だ。
……この子、どこまで見えてるんだ。
リーゼはわしの視線に気づいたのか、ちらりとこっちを見て、また黙って炭を動かしはじめた。描きあがった絵は誰にも見せない。部屋のすみに板切れが少しずつ積み上がっていく。
分析結果。次女、リーゼ。……ちょっと怖い。
◇ ◇ ◇
最後に、次男。二歳。
わしを最初に「さる」と呼んだのはロッテだが、すっかり定着させたのは次男である。
「さる!」
「さる、こぶん!」
次男はわしを子分にしたいらしい。ついでに、エリクのことも子分にしたいらしい。毎朝「にいちゃん、こぶん!」と宣言して、毎朝「はいはい、カイ」と流されている。
わしのかごに顔を突っこんでは、頭をぺしぺしと叩く。いや、なでているのか。ぺしぺしなのか、よしよしなのか、力加減が微妙で判断がつかない。かわいがっているのだと、思うことにしている。
最近、カイは「さる」のほかに、「アイン」とも言えるようになった。……言わないけど。
ときどき、宝物を見せにくる。きれいな石。まっすぐな枝。ひからびた虫。
「さる、やる」
親分から子分への、ありがたい下賜品らしい。ひからびた虫はちょっと困る。
ときどき、わしを持ち上げようとする。
「よいしょ……よい……しょ……」
上がらない。二歳児の腕力では無理がある。三回くらい挑戦して、あきらめる。そして、あきらめたあとは、だいたい抱きついてくる。
「さる、あったかい」
赤ん坊は体温が高い。カイはわしに抱きついたまま、満足そうに目を細めて――
すぐに、寝る。
毎回だ。抱きついて、三十秒で寝る。わしは湯たんぽか何かだと思われているのかもしれない。
通りがかったエリクが、カイに毛布をかけて、ついでにわしにもかけていった。部屋のすみではリーゼが炭を動かしている。たぶん、今度はこの寝姿を描いている。
カイの寝息が首すじにかかる。重い。あったかい。ちょっと、よだれが垂れている。
◇ ◇ ◇
三人の分析が済んで、ひと月。首がすわってからの世界は、すっかり変わっていた。
前世でシステムの見張り番をやらされたことがある。正確には、見張る仕組みを作って、あとは仕組みに見張らせていた。
見張りのコツは、ひとつだけだ。「いつも」を知っておくこと。いつもを知っていれば、いつもと違うものに気づける。
生まれて四か月。わしは家族の「いつも」を見てきた。だから、気づいた。
長男エリクの「いつも」が、おかしい。
一つめは字。
エリクは毎日、庭のすみで地面に字を書いている。棒きれは右手。それが、ここ三日は左手だ。字がよれている。エリクの字がよれているのを、わしは初めて見た。
二つめは白湯の椀。左手で配っていて、右手はずっと袖の中だ。
三つめは昼寝。
エリクの手がわしの背中を叩く。とん、とん。
……違う。
いつもは母親とまったく同じリズムだ。それが今日は、半拍ずつ遅れる。左手で叩いているからだ。
三つそろえば、偶然ではない。障害発生だ。どこかが壊れている。
その夜、わしは見た。
みんなが寝静まったあと、エリクがそっと起きだして、水がめのそばにしゃがみこんだ。右手に巻いた布をほどく。
手のひらが、ぱっくりと裂けていた。まわりが赤く腫れて、ふくらんでいる。
三日前、柵の杭を運んでいたときだ。
エリクは水で傷を洗った。声は出さない。歯を食いしばって、肩だけが小さく震えている。
新しい布を巻こうとして――かごの中のわしと、目が合った。
エリクはしばらく固まっていた。それから、人差し指を口に当てた。
「……アイン。ないしょな。父さんも母さんも、いそがしいから」
ないしょ、と言われても。
エリクは布を巻きなおして、何事もなかったように横になった。いつもどおり、最後に寝た。
ホウレンソウ。前世の新人研修で、最初に習うやつだ。わしは、ほとんど守らなかったが。
今こそ報告したい。だが、口がない。あるのは「あう」だけだ。
泣いてみるか。いや、泣いても、母親は「おなかすいたのかい」と乳をくれるだけだ。それは生後ひと月で身をもって学んだ。
……どうする。
◇ ◇ ◇
次の日の夕方、父親が帰ってきた。
いつもの汗と泥。いつもの「……ただいま」。子どもたちの頭を、順番になでていく。エリクは自分の番で、さりげなく右手を背中に回した。
うまい。本当に、うまく隠す。六歳のくせに。
それからエリクはいつものようにわしのかごをのぞきこんだ。わしがちゃんと息をしているか、確かめるみたいに。
かごのふちにエリクの右手がかかった。
今だ。
わしはその指をありったけの力でつかんだ。赤ん坊の握る力は、意外と強い。
「っ……!」
エリクの顔がゆがんだ。すぐにいつもの顔に戻したが、遅い。
父親が、見ていた。
父親は何も言わずに、エリクの右手を取った。エリクが引っこめようとしても、父親は離さない。布が、ほどかれた。
腫れはゆうべより広がっていた。
「エリク! なんで言わないんだい!」
母親が鍋を放り出して、飛んできた。
「……みんな、いそがしいから」
エリクは、うつむいた。
「ぼくは、手がかからない子だから」
母親が言葉に詰まった。
手がかからなくて助かるよ。母親の口ぐせだ。エリクは、それをずっと聞いていたのだ。
父親がエリクの手を両手で包んだ。
そして、父親の手が、光った。
……は?
かまどの火とは違う。寄り合いの夜に見た、灯りの石の青白さとも違う。陽だまりのようなやわらかい光が、父親の指のすきまからこぼれている。
光の中で腫れが引いていく。裂けていた傷が、ゆっくりと閉じていく。赤い線が薄い桃色になって、それも消えた。
魔法だ。
浮く台を見た。光る石を見た。魔獣を見た。剣を振る母親を見た。それでもどこかで、「便利な道具と、強い人がいる世界」くらいに思っていた。
これは、道具ではない。人の手が、光っている。
詠唱は? 魔法陣は? ……なかった。父親はひとことも言わずに、無言で手を光らせた。
アニメなら、上級者のやつだ。
「……痛いときは、言え」
父親が、ぼそりと言った。
「……はい」
エリクの目から、ぽろりと一粒、涙が落ちた。手が痛いあいだは、一滴も出なかったのに。
「あんたが言うかね」
母親が父親の脇腹を肘でつついた。
「村の子のケガは、すぐ見つけて治して回るくせに。自分ちの子のケガは見落とすんだから」
父親は黙って頭をかいた。
◇ ◇ ◇
わしは、かごの中から父親の手を見上げた。
光はもう消えていた。指先はいつものようにひび割れている。
……自分の手は、治さないのか。
いや、待て。そもそも、わしにもできるのでは?
異世界転生といえば、チートだ。ステータスは出なかった。だが、魔法なら。
わしは、父親のひび割れた指に向かって、短い腕をせいいっぱい伸ばした。手のひらを、ひらく。前世で見たアニメの詠唱を、片っぱしから思い浮かべる。光よ。癒やしの力よ。わが手に宿れ。
渾身の、詠唱。
「あう!」
何も起きなかった。
「あうあー!」
起きない。
父親が、ぽかんとした顔でわしを見下ろしていた。それから、伸ばしたわしの手を、ひび割れた指でそっと握った。
父親の口のはしが、ゆるんだ。いつもより、もう少しだけ。
笑った。
たぶん、初めて見た。
……まあ、詠唱が「あう」なら、何も起きなくて当然か。
ふと見ると、エリクがわしを見ていた。治ったばかりの右手を、左手でさすりながら。
「……アイン?」
わしの顔と、自分の右手を見比べている。
わしは、全力で赤ん坊の顔をした。
「あう」
エリクはしばらくわしを見ていたが、やがて小さく笑って首を振った。
「……まさかな」
それは、こっちの台詞だった。
その夜、エリクの手がわしの背中を叩いた。とん、とん。
右手だった。リズムは、母親と同じに戻っていた。
いつも最後に寝るエリクが、その夜は家の誰よりも先に寝た。
分析結果に、追記。
カイ。親分になりたい。子分に抱きついて、三十秒で寝る。
エリク。家族全員の穴をふさぐ。父親とそっくりだ。
父親。手が光る。
……分析としては雑だが、今のわしには、それ以上は分からない。
……まあ、今は、これでいいか。
わしは、目を閉じた。
――ビジネス用語――
※1 アサイン:仕事を人に割り当てること。今回のアサインは、朝がロッテ、昼からがカイ。割り当てられるわし本人の希望は聞かれなかった。
※2 ホウレンソウ:報告・連絡・相談の頭をとった言葉。エリクは「ないしょな」で止め、報告したいわしには口がない。




