第3話 サボリーマンと、現場最強の上司
父親の分析は終わった。次は母親だ。
ひとことで言うと、母はつよし。
母親の朝は父親よりも早い。父親が戸をくぐるころには、もうかまどに火が入っている。芋をむき、野草を刻み、ゆうべの残りのスープに足して、大鍋ひとつで朝食ができあがる。
材料は毎日ほとんど同じだ。芋と野草と、ときどき豆。それなのに、母親のスープは毎日ちょっとずつ味が違う。
食事が終われば、洗濯、掃除、繕いもの、水汲み、薪割り。手が止まらない。
薪割りは一振りで終わる。斧を振り上げたところは見えたのに、振り下ろしたところが見えない。気づいたときには、薪がきれいに二つに割れて転がっている。
洗濯物を絞りながら、次男が転がした木の器を足で拾い、その器で長女の頭をこつんとやって「片づけ!」と言い、そのまま干しに出ていく。
水がめを頭に載せ、背中にわしをくくりつけ、腰に次男を抱えて井戸から戻ってきたこともある。人間クレーンか。
わしのおむつ替えなど、片手で鍋をかき回しながら、もう片方の手だけで十秒で終わる。マルチタスクにも、ほどがある。この人の前では、わしの尊厳など湯気のように消えていく。
長女と次男が芋の取り合いで泣きわめいたときは、二人を両脇に抱えてそのまま外へ出ていった。戻ってきたとき、二人は仲直りしていた。外で何があったのかは、誰も語らない。
洗濯物は、一枚ずつ、ぱん、とはたいてから干す。そのあいだ、母親はいつも知らない歌を口ずさんでいる。異世界の歌だ。……いや、今のわしにとっては、全部が異世界の歌か。
一つひとつの動きに、無駄がない。
前世の現場に、ひとりほしかった。この人がプロジェクトマネージャーなら、あの大炎上も三日で鎮火していたかもしれない。
家のことが片づくと、母親はふいにいなくなる。
最初はどこへ行っているのか分からなかった。だが、帰ってきた母親のスカートのすそには泥がついていて、手からは父親と同じ土の匂いがした。腕には鍬の柄でこすれたような赤い跡があった。
なるほど。畑だ。
家事を片づけた残りの時間で、父親の畑仕事を手伝っているのだ。そして陽が落ちきる前には必ず帰ってきて、帰ってくるなり袖をまくって夕飯の支度にとりかかる。
この人にも休みという概念がない。この家の大人は、いったいどうなっているんだ。
母親は父親より先に寝ない。父親より遅く起きることもない。……いつ寝ているんだ。
夕飯どき、スープをよそい終えた母親が、ふと父親の椀をのぞきこんで眉をつり上げた。
「あんた。また自分の芋を、子どもらに回したね」
「……見てたのか」
「あたしが気づかないとでも思ったかい。あんたが倒れたら、この家はおしまいなんだよ」
母親は自分の椀から芋をひとつつまんで、父親の椀に放りこんだ。
「食べな」
父親は口のはしを少しだけゆるめて、それを食べた。
……この夫婦は、たぶん、とても仲がいい。
母親はそのまま子どもたちを見回して、豪快に笑った。
「ほんと、うちの子らは手がかからなくて助かるよ! こんないい子ばっかり授かって、あたしは幸せもんだ!」
父親が黙ってうなずく。
笑うと、母親は娘のような顔になる。……前世のわしから見れば、実際、娘くらいの年なのだが。日に焼けた頬に、ほつれた髪。袖からのぞく腕は細いのに、たくましい。美しさと豪快さが、ひとつの体に同居している。
母はつよし。
ただ、子どもたちの手がかからないのは、子どもたちが勝手にいい子だから、というわけではない。わしはその理由をちゃんと見ていた。
長男だ。
◇ ◇ ◇
長男は、六歳だ。
……本当に、六歳か?
前世の六歳児といえば、鼻水を垂らして、おもちゃの取り合いで泣いていた。わしもそうだった。
「エリク、あとは頼んだよ」
畑へ出ていく母親が、戸口で振り返った。長男が「うん」とうなずく。
長男の名前を、わしはこのとき初めて聞き取った。そのころのわしは、だいたい寝ていた。
母親がいなくなると、エリクはまず全員の居場所を確かめる。長女は庭で木に登りかけている。次女は床に座って、黙々と何かを描いている。次男は戸口から外へ這い出そうとしている。
エリクは次男の襟首をつかんで連れ戻し、長女に「降りて」とひとこと言い、次女の横に水の入った椀を置く。次男が転んで泣けば、泣きやむまで背中をさすっている。
それから、わしのかごをのぞきこむ。ちゃんと息をしているか、確かめるみたいに。
目が合うと、エリクは少しだけ笑った。
「アイン、いい子だな」
……いい子なのは、そっちだ。
みんなが遊んでいるすきに、エリクは庭のすみで、棒きれを使って地面に字を書いている。父親の帳面をこっそり写して練習しているらしい。書いては消し、消しては書く。誰に言われたわけでもないのに。
ときどき、わしのかごの横で地面の字を指さして、「これが、アインの『ア』」と教えてくれる。赤ん坊に字が分かるとは思っていないはずなのに、律儀だ。おかげでこの世界の字を少しずつ覚えている。
昼寝の時間になると、エリクの本領が発揮される。
まず、次男を寝かしつける。背中をとん、とん、と叩いて、寝息が深くなったのを確かめる。
次に、ぐずる長女の隣に横になって、作り話をひとつ聞かせる。今日の話は「空飛ぶ荷台に乗った騎士が、悪い竜をやっつける話」だった。長女は目をきらきらさせて聞き、三回目の「やっつけた」で寝た。
次女は絵を描く手が止まるまで待ってから、そっと炭のかけらを取り上げて毛布をかける。
最後に、わしだ。
そうして全員が眠ったのを見届けてから、ようやく自分が横になる。そして、誰よりも先に起きている。起きると、まず水がめをのぞく。減っていたら、黙って汲みにいく。
わしは何度か寝たふりをして確かめてみた。間違いない。エリクはいつも最後に寝て、最初に起きる。
前世の会社にもこういう若手がいた。気がつくと全部の穴をふさいでいて、本人はそれを当たり前だと思っている。そういうやつはだいたいとんでもなく出世した。
分析結果。
長男、エリク。たぶん六歳にして、わしより人間ができている。
この子はきっとものすごく優秀な領主になる。
……中身、わしと同じだったりしないだろうな。
まあ、それはないか。
跡継ぎがこれなら、この家は安泰だ。三男のわしは安心してサボれる。
「アイン。おまえが大きくなったら、いっしょに父さんを手伝おうな」
かごをのぞきこんだエリクが、小さな声で言った。
……すまん、兄よ。わしは、サボる予定だ。
昼寝の時間。エリクの手がわしの背中をとん、とん、と叩く。小さいのに、迷いのない手だ。母親のそれとまったく同じリズムだった。
◇ ◇ ◇
寄り合いから、半月ほどたった。
柵づくりが始まっていた。父親は、昼は畑、夕方からは森の手前で木を切り、夜は浮く台で石を運んでいる。いつ寝ているのかはもう考えないことにした。
その日の昼前、わしは母親の背中にいた。
洗濯の日はいつもこうだ。布でくるまれて、背中にくくりつけられる。母親が洗濯物を絞るたびに、わしも一緒に右へ左へ揺れる。首はまだすわっていないので、母親が振り向くと、わしの頭は一拍遅れてついていく。
庭ではエリクが次男を追いかけ、長女が鶏を追いかけ、次女が地面に何かを描いていた。いつもの昼だ。
カン、カン、カン、と遠くで鐘が鳴った。
母親の手が止まった。鐘は鳴りやまない。カンカンカンカン、とどんどん速くなる。
「魔獣だあ! 東の畑だ!」
柵の向こうの道を誰かが叫びながら走っていく。
東の畑はうちのすぐ裏だ。父親が木を切っているのは、反対側の西の森。
……まずくないか。
母親は絞りかけの洗濯物を、ぱん、と一度はたいて物干しにかけた。
かけるのか。今。
「エリク。みんなを家に入れて、かんぬき」
「はい」
エリクは、もう動いていた。次男の襟首をつかみ、長女に目で合図し、次女の手を引く。迷いがない。
……慣れている?
「おれも、たたかう!」
暴れる次男を小脇に抱えて、エリクが家に入る。母親もそのあとに続いて、すたすたと中に入った。
母親は部屋の真ん中で片手を上げた。梁の上に細長い布包みが載っている。
わしが生まれた日から、ずっとそこにあったものだ。天井の木目を覚えるついでに、何度も見た。物干し竿の替えか何かだと思っていた。
母親はそれをつかんで下ろすと、そのまま外へ出た。戸が閉まり、かんぬきの落ちる音がした。
庭に残ったのは、母親と、その背中のわしだけだ。
……あれ?
わしも、中に入れてもらえるのでは?
「あう」
「あんたは、ここがいちばん安全だよ」
母親は背中のわしに言った。
「あたしの背中より安全なところは、この村にはないからね」
布がほどける。中から出てきたのは、剣だった。
細身でまっすぐで、鞘も柄も古びている。なのに、母親が抜いた刃だけは、昼の光を映して白く光った。
……は?
裏の畑のほうでめきめきと何かが折れる音がした。
柵が、飛んだ。
畑の芋の葉を蹴散らして、何かがこっちへ突っこんでくる。
イノシシだった。ただし、軽トラくらいある。口の両側から、わしの腕より長い牙が突き出している。背中の毛は針のように逆立って、目が赤い。
イノシシの倍。寄り合いで若者が言っていたのは、大げさではなかった。むしろ控えめだった。
母親は、歩いた。
走らない。構えもしない。井戸へ水を汲みにいくときのいつもの足取りで、まっすぐ魔獣のほうへ歩いていく。
おい。おい、ちょっと待て。
逃げろ。いや、わしを下ろしてから逃げろ。いや、下ろさなくていいから逃げろ。
頭の上で鼻歌が聞こえた。洗濯物を干すときの、あの知らない歌だった。
魔獣が地面を蹴った。地響きが背中ごしに伝わってきて、牙がぐんぐん近づいてくる。
母親が、半歩、横にずれた。
それだけだった。
魔獣の巨体がわしの鼻先をかすめて通りすぎていく。生臭い息が頬にかかった。
そのとき、母親の腕が一度だけ動いた。
洗濯物を、ぱん、とはたくのと同じ動きだった。
魔獣はそのまま五、六歩走って、どう、と倒れた。
……え。
終わり?
母親がくるりと家のほうを向いた。
「エリク、もういいよ」
首のすわっていないわしの頭は、一拍遅れてついていく。おかげで、わしだけが後ろを見ていた。
倒れた魔獣の、赤い目が開いた。前脚が地面をかき、巨体がぐらりと持ち上がる。
まだ、生きている。
わしは目の前にあった母親の髪を、ありったけの力でつかんで引っぱった。
「あう! あうあう! あーう!」
「わかってるよ」
母親は、振り向きもしなかった。剣が後ろへ一度だけ動いて、魔獣は今度こそ動かなくなった。
「いい子だね。ちゃんと見てたんだ」
……知ってたのか。
わしの決死の警告は、いらなかったらしい。髪を引っぱられ損である。母親が。
鍬や鋤を手にした村の男たちが、ばたばたと駆けこんできたのは、そのすぐあとだった。先頭は、あの声のでかいおやじだ。
「奥方様! ご無事で……って、もう終わってんじゃねえか」
おやじは倒れた魔獣と剣をぬぐう母親を見比べて、大きく息を吐いた。
「……相変わらずだなあ」
後ろで猟師の若者が口を開けたまま固まっていた。
「おめえ、見るのは初めてか。この村でいちばん強えのは、領主様じゃねえ。奥方様だ」
「あんた」
母親が、にっこり笑った。
「子どもの前だよ」
「いや、背中にくっついてるじゃねえか……」
おやじの言うとおりだった。
戸が開いて、子どもたちが飛び出してきた。
「おかあさん、かっこいい!」
「にく! にく!」
長女が母親の脚に飛びつき、次男は魔獣の周りを跳ね回る。次女は倒れた魔獣と母親の剣を黙って見比べていた。
エリクは最後に出てきた。かんぬきを外したその手が、少しだけ震えていた。母親と目が合うと、エリクはぎゅっと口を結んで、いつもの顔に戻った。
西の道から父親が走ってきた。その後ろを浮く台が全速力で追いかけてくる。あの台、あんなに速く飛べたのか。
父親は、倒れた魔獣を見て、母親を見て、背中のわしを見て、それから子どもたちを一人ずつ数えた。
「……無事か」
「見てのとおりさ。あんたが、いちばん青い顔してるよ」
母親が笑うと、父親はようやく長い息を吐いた。大きな手がわしの頭にそっと載った。
「さ、あんたたち、運ぶのを手伝いな! 今夜は肉だよ!」
村の男たちから歓声が上がった。
肉は、週に一度、ウサギが獲れたときだけだ。それが、軽トラ一台分である。今夜は村じゅうがお祭りになるだろう。
わしは、乳だ。乳児なので。
分析結果を、修正する。
母親。人間クレーンではなかった。
一つひとつの動きに、無駄がない。洗濯物をはたく手も、薪を割る一振りも、全部これだったのだ。
嫁にくる前に何をしていたのかは、分からない。聞こうにも、わしはまだ「あう」しか言えない。
その夜、家じゅうに肉の焼ける匂いが満ちた。
母親はいつもの歌を口ずさみながら鍋をかき回していた。梁の上にはまた細長い布包みが載っている。
母はつよし。
比喩ではない。
……まあ、今は、これでいいか。
わしは、目を閉じた。
――ビジネス用語――
※1 マルチタスク:いくつもの仕事を同時にこなすこと。母親は、鍋とおむつとわしの尊厳を同時に片づける。
※2 炎上:仕事が遅れや問題だらけになって、手がつけられなくなること。母親なら、一振りで消せそうだ。




