第2話 サボリーマンは、定例会議から逃げられない
生まれて、ひと月がたった。
赤ん坊の一日は短い。寝て、起きて、泣いて、飲んで、また寝る。泣くのは腹が減ったときと、おむつが気持ち悪いときだけにしている。中身が大人なので、そのへんは節度がある。
……と言いたいところだが、夜泣きだけはどうにもならない。体が勝手に泣く。
そのあいだに、やれることがひとつだけある。
観察だ。
最初に観察したのは、家族ではなく、空だった。夜泣きで目がさめるたびに、窓の板のすきまから月を数えた。全部の場面を見ないと気がすまない性分は、赤ん坊になっても治らないらしい。ひと月かけて、月は五つあると分かった。
月は、なぜ五つもあるのか。この体がやけに重いのと、何か関係が――
考えがまとまる前に、寝ていた。
次の晩からは、家族を見ることにした。
前世のわしは、仕事はサボっても人を見ることだけはサボらなかった。誰が本当に仕事のできる人間で、誰が口だけか。誰が困っていて、誰が無理をしているか。だいたい九割は当たる。外れる一割はたいてい本気でだましに来る相手だ。赤ん坊をだましに来る家族は、たぶんいない。
体が動かないなら、目と耳を使えばいい。ただし、赤ん坊の体はやたらと眠い。
というわけで、家族の分析を始めることにした。まずは父親だ。
父親は朝がやたらと早い。板の隙間から光の筋が差しこむころには、もう家にいない。戸のきしむ、ぎい、という音で、わしは毎朝目を覚ます。帰ってくるのは陽が落ちるころだ。
「……ただいま」
「「おかえりー!」」
四人分の声がそろう。長女がいちばんに飛びついて、父親の脚にぶら下がる。
ぼそりと「ただいま」を言う父親は、毎日全身汗と泥まみれだった。シャツは肌に張りつき、ズボンは膝から下が土の色に染まっている。戸口に立つ影はやたらと大きくて、天井の梁に頭がつきそうだ。
井戸で頭から水をかぶり、芋のスープを三口でかきこみ、子どもたちの頭を順番になでる。疲れているはずなのに、背中によじ登ってくる次男を振り払ったことは一度もない。
それから、わしは見てしまった。
父親の椀には芋がひとかけらしか入っていなかった。母親がよそった芋を、父親は誰にも気づかれないように、子どもたちの椀へ一つずつ移していたのだ。長男だけがそれに気づいて、何も言わずにうつむいていた。
父親が笑ったところを、わしはまだ見たことがない。ただ、子どもたちの頭をなでるとき、口のはしがほんの少しだけゆるむ。
わしの番になると、父親はいつも少しだけためらう。それから、大きくてごつごつした手で、驚くほどそっと頬に触れる。指先はひび割れていて、土の匂いがした。
そして、横になった三秒後には、地鳴りのようないびきをかいている。
分析結果。
働き者。……というより、この人には休みという概念がない。わしはまだ父親が家で一日過ごしているのを見たことがない。労働基準法は、この世界にはなさそうだ。
前世のわしは、定時のチャイムと同時に帰る男だった。この人の爪の垢を煎じて――いや、飲まない。飲んだら、働きたくなってしまう。
◇ ◇ ◇
その日も父親は陽が落ちるころに帰ってきた。
わしは戸口の近くのかごの中で、ぼんやりとそれを眺めていた。いつもの汗と泥。いつもの「……ただいま」。いつもと違ったのは、父親の後ろだった。
何かが、浮いていた。
座椅子の座面くらいの、平たい台だ。その上に、空になったかごと鎌がきちんと重ねて載せてあって、鍬の柄だけが前と後ろにはみ出している。それが父親の腰のあたりの高さでふわふわと宙に浮いて、後ろをついてくる。
……は?
浮いている。
ワイヤーは? 見当たらない。プロペラは? ない。音は? しない。台の下をのぞきこもうにも、まだ首がすわっていない。
なんぞ、あれ。
前世でドローンは山ほど見た。浮くものはたいていうるさい。羽根が回り、モーターがうなり、風が起きる。あれは何も起こさずにただ浮いている。
磁石か。いや、床に何も埋まっていない。気球か。いや、どこも膨らんでいない。反重力か。……そんなもの、あってたまるか。
とりあえず、仕様書をくれ。……赤ん坊に仕様書を読ませてくれる親は、いないか。
真っ先に飛びついたのは、次男だった。
「のる!」
台によじ登ろうとする次男を、父親がひょいとつまみ上げる。台はほんの少し沈んで、すぐに元の高さに戻った。
……沈んで、戻った。
載せた重さに合わせて、浮く力を調整している?
なのに、誰も驚いていない。長女は「あーあ」と言っただけで、次女は顔も上げずに炭で何かを描いている。この家では、浮く台は日常らしい。前世でいえば、一輪車くらいの扱いだ。
さわりたい。
猛烈に、さわりたい。
ひっくり返して、裏返して、どこがどうなって浮いているのか、隅から隅まで調べたい。前世で新しいガジェットを手に入れたときと同じ気持ちだ。
わしはかごの中からありったけの力で手を伸ばした。
「あう!」
届かない。
「あうあう! あーう!」
届くわけがない。わしの腕は手のひらまで入れても十五センチくらいしかない。
それでも伸ばす。指をひらいて、閉じて、またひらく。短い腕がむなしく空をかき、ついでによだれも垂れた。浮いている台は父親についてゆらゆらと奥へ遠ざかっていく。
待て。行くな。せめて、裏側だけでも――
「あらあら、どうしたんだい。そんなに手ぇ伸ばして」
ひょいと、体が浮いた。
浮いたのは、わしのほうだった。母親に抱き上げられていた。
「おなかすいたんだね。はいはい、ちょっと待ってな」
違う。そうじゃない。わしが欲しいのは、あっちの、浮いている――
口に、ふにゃりとやわらかいものが押し当てられた。
……。
体は、正直だった。
さっきまでの熱は、どこへやら。わしの口は勝手に動き、のどは勝手に鳴り、全身の力が勝手に抜けていく。
ほっとする。
ほっとしてしまう自分が、ちょっと情けない。中身は五十のおっさんなのに。赤ん坊の体というのは、どうも本能に逆らえないようにできているらしい。
「そんなに父ちゃんの道具が気になるのかい。大きくなったら、いやでも使うことになるよ」
母親は笑いながら、わしの背中をぽんぽんと叩いた。
母親の肩ごしに奥の暗がりが見えた。浮いていた台は壁ぎわにすっと降りて、ただの台に戻っていた。台の上の鍬がかまどの火を映してにぶく光っている。
あれは、いったい何なんだ。
芋を子どもに回す父親。重さに合わせて浮く台。この家には、この世界には、まだわしの知らないことが山ほどある。
明日こそ、さわってやる。さわれなくても、せめてもっと近くで見てやる。
◇ ◇ ◇
赤ん坊には、会議がない。
生まれた日に、わしはそう言って喜んだ。締め切りもない。定時もない。会議もない。
取り消す。
会議は、向こうからやってきた。
生まれてひと月と半分ほどたった夜、夕飯が終わったころに戸が叩かれた。
「領主様。寄り合いに参りました」
祝いの芋を持ってきてくれた、腰の曲がったじいさんだった。後ろにずんぐりした大男と、ひょろりとした若者が続く。三人とも手に小さな灯りをさげていた。火ではない。手のひらほどの石がぼんやりと青白く光っている。
……あれも、たぶん浮く台の親戚だ。
月に一度の、村の寄り合いらしい。
母親がかまどの火を大きくし、長男が椀に白湯を注いで回る。ほかの子どもたちは部屋のすみに追いやられた。長女は不満そうな顔で、次男はもう半分寝ている。次女は炭を握っている。
わしのかごは、かまどのそば。父親の座る場所のすぐ横だ。議長席の隣、特等席である。
「では、今月の話を」
じいさんが切り出した。
アジェンダは三つあるらしい。前世なら、ホワイトボードに書き出すところだ。この家にはホワイトボードどころか紙もない。議事録はわしの頭の中にだけ残しておく。前世なら、議事録はイアナの仕事だった。会議が終わるころには三行にまとめて、決まらなかったことまで並べてくれていた。
一つめ。畑を広げたい。
「今年は、村で子どもが五人生まれましてな。来年の冬を越すには、今の畑では足りませんで」
「領主様のとこも、毎年増えるしなあ!」
大男が、がはは、と笑った。声がでかい。梁が震えた気がする。
母親がちらりと大男を見た。大男は笑うのをやめた。
……ん?
広げるなら、森の手前の荒れ地しかない。だが、そこには大きな切り株と石がごろごろしていて、掘り起こすだけで一苦労だという。
二つめ。害獣。
「ウサギが芽を食っちまう。イノシシは柵をぶち破る。直しても直しても、きりがねえ」
大男がこぶしで膝を叩いた。
「だから、柵が先だろうが! 畑を広げたって、食われちまったら同じだ!」
「でも、広げなきゃ、冬が越せません」
若者が小さな声で、でもきっぱりと言い返した。
「食われる畑を広げて、どうすんだ!」
「直してばかりじゃ、いつまでたっても増えないです!」
……ああ。この会議、知っている。
新しいものを作るか、壊れたところを直すか。前世で百回は見た言い争いだ。どっちも正しくて、どっちも人手が足りない。だいたい声のでかいほうが勝って、だいたいあとで困る。
そこへ若者が三つめを出した。
「それと……森の際で、足跡を見ました」
若者は猟師らしい。声が少し震えていた。
「イノシシの倍はありました。木の皮が、おれの背より高いところまで、えぐれてて」
部屋が、しんとした。
「……魔獣ですかな」
じいさんが低くつぶやいた。
「このあたりに出るのは、十何年ぶりですな」
……今、何と言った?
魔獣。
浮く台を見たときも驚いたが、あれは便利な道具だった。一輪車の親戚だと思えば、まだ飲みこめた。魔獣は、飲みこめない。
前世の島にもイノシシは出た。軽トラにぶつかって、軽トラのほうがへこんだ。あれの、倍。
ここは、そういう世界なのだ。
「だったら、なおさら開墾なんぞできるか! 魔獣の鼻先じゃねえか!」
「でも、冬が――」
「冬の前に食われちまうわ!」
大男の声がどんどん大きくなる。若者も引かない。じいさんはおろおろと二人を見比べている。
父親は腕を組んだまま黙っていた。ひとこともしゃべらないし、表情も変わらない。大男と若者がちらちらと父親の顔色をうかがう。黙っている領主は、怒っているように見えるらしい。
だが、わしは知っている。この人は怒っていない。毎晩、子どもの椀に芋を移すときと同じ目をしている。
全部、聞いているのだ。
とはいえ、このままでは決まらない。声のでかいほうが押し切るか、全員がくたびれてペンディングになるか。どちらも、ろくな結末ではない。
荒れた会議を止めるのに効くのは、正論ではない。
休憩だ。
わしは、泣いた。
わざとだ。
「ふぎゃあああああ!」
赤ん坊の体は便利だ。泣こうと思えば、いくらでも泣ける。前世で会議中にこれをやったら、その場で人事に呼ばれている。
「ほら、ごらん」
母親がひょいとわしを抱き上げた。
「大の大人がそろって、赤ん坊を怖がらせて。どうすんだい」
大男がでかい体を縮めた。
「す、すまねえ、奥方様」
若者もうつむき、じいさんがほっとしたように笑った。長男が空になった椀に黙って白湯を注いで回る。部屋の熱が、すうっと引いていく。
母親の腕の中で、わしは泣きやんだ。予定どおりだ。
誰も、赤ん坊がわざと泣いたとは思っていない。それでいい。
父親が組んでいた腕をほどいた。
「……柵が先だ」
大男が、ほらみろ、という顔をした。
「柵の材は、開墾で出た木を使う」
若者が顔を上げた。
「切り株と石は、うちの台で運ぶ」
「で、でも、あの台は、領主様の畑の――」
「夜に運ぶ」
じいさんが目をしばたたいた。
「森の際は、俺が見ておく」
それだけ言って、父親は白湯をすすった。
……やるじゃないか。
柵を先にすれば、大男の言い分が通る。柵の木を開墾で切り出せば畑も広がるから、若者の言い分も通る。足りないリソースは、自分の道具と自分の夜で埋める。一番危ない森の見回りは、自分で引き受ける。
両方の要望を満たして、しかも費用はゼロ。
いや、ゼロではない。かかる手間を、全部、父親が自分の体で払っている。この家の大人には、やはり休みという概念がない。
「領主様おひとりじゃ、いくらなんでも……」
じいさんが心配そうに眉を寄せた。
「なあに、いざとなりゃ、奥方様が――」
大男が言いかけた、そのときだった。
「あんた」
母親が、にっこり笑った。
「子どもの前だよ」
大男は口を閉じた。今夜いちばん、すばやい動きだった。
……奥方様が、なんだ?
母親の顔を見上げる。いつもの豪快な笑顔だ。笑顔なのに、なぜか背中のあたりが涼しい。
寄り合いはそれでお開きになった。
村人たちが帰ったあと、父親はかまどの前に座って鎌を研ぎはじめた。しゃっ、しゃっ、と規則正しい音がする。長男がその横で、父親の手もとをじっと見ていた。
分析結果に、追記。
父親。会議では、議長。
前世のわしの職場にも、ほしかった。……いや、こんな上司がいたら、わしはサボれなかったか。
それから、もうひとつ。この世界には、魔獣がいる。
そして、母親には何かがある。
しゃっ、しゃっ、という音を聞きながら、まぶたが重くなってくる。泣くのは意外と体力を使う。
……まあ、今は、これでいいか。
わしは、目を閉じた。
――ビジネス用語――
※1 アジェンダ:会議で話し合うことと、その順番。今回のアジェンダは、畑を広げる、害獣、森の足跡の三つ。
※2 ペンディング:決めるのを先送りして、保留にすること。今回は、ペンディングになる前に赤ん坊が泣いた。
※3 リソース:仕事に使える人・物・お金・時間などの手持ち。この家のリソースは、浮く台一台と、父親の夜。




