第1話 サボリーマンは、異世界に生まれる
知らない天井だった。
太い梁が二本、黒ずんだ板のあいだを渡っている。板の隙間から細い光が漏れていて、その光の筋がゆっくりと床を這っていく。角度からして窓は東向き。なら、今は朝だ。
……知らない天井だ。
一度は言ってみたかった台詞を、心の中でじっくり味わう。アニメで何度も見たやつだ。まさか本当に言える日が来るとは。
顔の前で何かがぶんぶん揺れていた。
手だった。
小さい。指が短くて、ふくふくしている。グーを作ろうとしたら、ふにゃっとしたパーになった。
――キタ。
これはあれだ。異世界転生というやつだ。
最後の記憶をたどってみる。コンビニだ。漫画を買うか迷っていて、「コンビニの君」が入ってきて、会釈をして――ものすごい音がした。あとは、なんかやわらかかった気がする。
享年五十。死因、たぶんコンビニ。
……あの子は、無事だっただろうか。かばったつもりだったが、たぶん間に合っていない。
まあ、考えてもしかたない。それより今は、二周目の人生である。
異世界転生といえば、チートだ。とりあえず、ステータスオープン。
「あう」
……何も出ない。発音が悪かったのかもしれない。
「あうあー」
出ない。
「あーう!」
やっぱり出ない。三回目で飽きた。
ぎし、と床がきしんで、視界の端から顔がのぞいた。一つ、二つ、三つ、四つ。どれも子どもの顔だ。いちばん大きい男の子で六つくらい、いちばん小さい子はまだ足もとがおぼつかない。そろいもそろって頬がこけていて、目だけが大きい。
「ちっちゃい」
いちばん小さい子が目をまんまるにした。
「しわしわ。さるみたい」
いちばん口の達者そうな女の子が、遠慮なくわしの頬をつついた。
さる、とはなんだ。こちとら中身は五十のおっさんだぞ。言い返してやろうと口を開いて――やめた。相手はレディだ。
「さるじゃない。また、おとうとだ」
いちばん大きい男の子が、えらそうに胸を張る。
なるほど、「また」か。どうやらわしには、兄も姉もたくさんいるらしい。
いちばん小さい子がわしの指をつかんでそのまま口に入れようとした。……やめなさい。
「ほらほら、どいたどいた!」
豪快な笑い声とともに、子どもたちの頭の上から大きな手が伸びてきて、ひょいと抱き上げられた。
きれいな女の人だった。シルエットはすらりときれいなのに、抱き上げる腕は力強く、手のひらには硬いたこがあった。苦労してきた人の腕だった。わしの体は掘りたての芋みたいに軽々と抱えられ、彼女の腕の中にすっぽりと納まった。どうやら今世の母親らしい。
「あんたたち、見てごらん。今日からこの子も家族だよ。……ちょっと、あんた! 突っ立ってないで、名前! 名前考えてって言ったでしょう!」
戸口に立っていた大柄な男が、土のついた手で困ったように頭をかいた。しばらく天井を見上げてうなってから、ぽつりと言う。
「……アイン」
「いいじゃない! アイン、アインだよ、あんたたち!」
アイン。
悪くない。少なくとも、堀口よりはだいぶ異世界っぽい。
服はどれも何度も繕った跡がある。部屋には家具らしい家具がなく、電灯もコンセントも見当たらない。どこからか、薄いスープの匂いがした。
……前言撤回。異世界は異世界でも、どうやらハードモードのほうらしい。
まあ、難易度が高いほうが攻略しがいはある。……いや、わしは昔から、イージーモードで楽をしたい派だった。
母親の腕の中は、汗と土と日なたの匂いがした。
あったかい。
……ふと、気づいてしまった。人の肌に触れるのは、いつ以来だろう。指を折って数えようとして、指がうまく折れなかった。
わし、三十代の後半から、女性と触れ合ってねぇ……。
しかも、その記録を十何年ぶりに塗り替えたのが、母親である。……まあ、その母親は、前世で最後に触れ合った女性よりもだいぶ若いのだが。
心の中で、そっと泣いた。ついでに体のほうも泣いた。赤ん坊なので、誰にも怪しまれなかった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、戸口で誰かの声がした。
「領主様。このたびは、おめでとうございます」
腰の曲がったじいさんが、両手で麻袋を抱えて立っていた。
「おお、わざわざすまんな」
父親が土のついた手で頭をかきながら出ていく。
「うちの畑で採れた芋です。今年はちっとばかし、出来がよくて」
「助かる。本当に助かる」
麻袋を受け取る父親の声は、本気でうれしそうだった。
……領主様?
わしは母親の腕の中から、ぐるりと部屋を見回した。家具のない部屋。繕いだらけの服。薄いスープ。
この家が?
「ほう、この子が。……坊ちゃんは、ずいぶん賢そうな目をしておられる」
じいさんが母親の腕の中をのぞき込んで目を細めた。
……中身が五十なので。
「これで、男の子が三人ですなあ」
「ああ。三男だ」
三男。
なるほど。貴族は貴族でも、だいぶ端っこのほうの貴族らしい。そしてわしは、その家の三男坊。家を継ぐ心配もない。
……サボるには、悪くない立ち位置である。
「じいさん、お礼にスープでも飲んでいきな! ……薄いけど!」
母親の豪快な笑い声が部屋じゅうに響いた。
赤ん坊の暮らしは、思っていたより快適だった。
仕事は、寝ることと泣くこと。締め切りも会議も定時もない。いや、毎日がノー残どころか、一日じゅうずっと定時後みたいなものだ。寝ていても誰にも怒られないどころか、寝ているだけで「えらいねえ」と褒められる。
ここは、もしかしてホワイト企業なのでは?
……と思ったのは、半日だけだった。
暇だ。ひたすら暇だ。天井の木目は、もう全部覚えた。
腹が鳴った。
……食事の時間については、詳しく語らないでおく。中身は五十のおっさんなのだ。わしは、心を無にした。
◇ ◇ ◇
その夜、家族はひとつの部屋で寄り添うように眠っていた。
あちこちから寝息が聞こえる。兄の歯ぎしり。姉の寝言。父親の、地鳴りのようないびき。
前世では、ひとりの部屋で三つの声と暮らしていた。今は、六人の寝息の中にいる。
にぎやかなはずなのに、わしの耳は妙に静かだった。
あの三つの声がしない。アニメの新情報をまくしたてる声も、コードに文句を言う声も、アニメは二本までと止める声も。サーバーを運んだ夜の、あの車の中みたいだ。いや、あれよりずっと静かだ。
そういえば、あのサーバーは会社に置きっぱなしだ。撤収、してないんだよな。
最後の朝、ポケットのスマホがずっと震えていた。あれは、会社のチャットなんかじゃなかったのかもしれない。
あいつら、今ごろどうしているだろう。誰かに雑に扱われて、電源を落とされたりしていないだろうか。
……まあ、心配したところで、今のわしにできるのは「あう」くらいなのだが。
窓の板のすきまから、月が見えた。
青白い、大きな月だった。その少し下に、橙色の小さな月が、もう一つ。すきまの端には、紫の、もっと小さいのが半分だけ見えていた。
……月が、多い。
ステータス画面は出なかったが、こっちのほうが、よほど異世界らしい。
「あう」
小さく言ってみた。やっぱり「あう」だった。
隣で寝ていた口の達者な姉が、寝返りを打って、わしの手をぎゅっと握った。レディに握られた手は、振りほどけない。
反対側で眠っていた母親が、寝ぼけたまま手を伸ばして、わしの背中をとん、とん、と叩いた。
……まあ、今は、これでいいか。
わしは、目を閉じた。
――ビジネス用語――
※1 ノー残:残業をしない日のこと。前世のわしは毎日が自主的にノー残だったが、今世はそもそも定時がない。
※2 ホワイト企業:休みや残業の扱いがきちんとした、働く人にやさしい会社。寝ているだけで褒められる職場だったが、半日で飽きた。




