第29話 サボリーマンの当番表、六年越しで稼働する
秋の旅のころには、母親のお腹はもう目立っていた。
それでも母親は、寄り親様の町まで五日の道を歩いて往復した。宿の裏庭でロッテの前髪の火をはたいて消したのも、身重の母親だった。
冬になっても、母親は毎朝、薪を割っている。
お腹が前にせり出しているので、斧を振る角度が少しだけ変わった。それでも、一振りだ。薪は一振りで、きれいに二つに割れる。
お腹は目立っても、腕は変わらないらしい。
家は少しだけ静かになっていた。エリクとロッテに続いて、リーゼも町の学校に行ってしまった。戸口の柱には、リーゼが描いた当番表がまだかかっている。桶をふたつ下げたロッテも、砦を積むカイも、絵の中ではあのころのままだ。そのロッテは、もう家にいない。
残ったのは、カイと、わしと、双子と、フィンと、ネル。それから、ノエル先生。
そして、もうすぐ、一人増える。
「ミナが、おねえちゃん!」
「ニナが、おねえちゃん!」
双子は毎朝これでもめている。ネルが生まれたときと同じだ。あのときはロッテが「ふたりとも」で片づけたが、今はロッテがいないので、片づかない。
ネルが母親のお腹をじっと見上げた。
「……ネル、いちばんした、じゃなくなる?」
ネルが生まれた日に、フィンが同じことを言った。この家の子どもは一番下を解かれる日に、みんな同じ顔をする。
フィンが八の字の眉のまま、ネルの頭をなでた。
「……ようこそ」
ネルが生まれた日に、わしがフィンに言った言葉だった。フィンはそれをちゃんと覚えていて、自分の番が来たら使うつもりで取っておいたらしい。
ミナがネルの小さな靴を拾い上げて、目を細めた。
「みじょか」
いつのまにか、この家では「みじょか」はただの「かわいい」になっていた。誰も「どこの言葉!?」と言わない。
聞きなれていないのは、ノエル先生だけだった。
「……みじょか、とは」
先生はいつもの帳面を開いた。わからない言葉を書きためている帳面だ。
「かわいい、って意味!」
カイが、胸を張った。
「うちの言葉!」
ノエル先生はうなずいて、帳面に書いた。この家の言葉。かわいい。それから、帳面の別のところをちらりと見た。そこには、たぶん「あかん」と書いてある。
◇ ◇ ◇
雪の朝だった。
母親が薪を割ろうとして、斧を振り上げたところで止まった。
「……来たね」
斧を、ゆっくりと下ろす。
その瞬間、家じゅうが動いた。
カイが雪の中に飛び出していった。産婆を呼びに行くのは、家でいちばん足の速いカイだ。ミナとニナはかまどに走って、二人で一つの鍋に水を張りはじめた。フィンはネルの手を引いて、奥の部屋へ連れていった。ノエル先生は本を一冊抱えて、そのあとを追っていった。小さい子たちにお話を読むつもりらしい。
父親は黙って戸口の外に立った。雪の中で、いつもの場所に。
誰も、何も言わなかった。言わなくても、みんな自分の役目を知っている。
十人めなのだ。
わしは戸口の内側で、立ちつくしていた。
この光景は見たことがある。三回も見た。湯を沸かす音も、戸口の外の父親の背中も、奥から聞こえてくるお話の声も、全部見たことがある。
そして、わしの頭の中で悪い癖が起き上がった。
双子のときは「みじょか」で迎えた。わしの最初の言葉だった。フィンのときは芋で迎えた。自分の芋を、乳をやる母親の椀に移した。ネルのときは、また「みじょか」が出て、フィンには「ようこそ」と言った。
同じ迎え方の横展開は、もうしたくない。
網羅したくなる、あの病気だ。
五人めの下の子はまだ使っていない言葉で迎えなければならない。弟の分と、妹の分。網羅は、倍になった。
わしは戸口の内側に座りこんで、考えた。
「おつかれさま」。だめだ。これはハイディ先生の言葉だ。「いらっしゃいませ」。これも、ハイディ先生だ。「予備」。レナーテ先生である。それに、生まれた子に予備と言う兄はいない。
「確定です」。……これも、レナーテ先生だ。
人の言葉ばかりだった。わしは、わしの言葉で迎えたいのだ。前世の言葉では、通じない。この世界の言葉では、ありきたりだ。
ありきたりではなく、人の言葉でもなく、まだ一度も使っていない、わしだけの――。
「アイン!」
肩を、思いきり揺すられた。
顔を上げると、雪まみれのカイがわしをのぞきこんでいた。後ろに産婆のおばあさんが立っている。
「生まれたぞ! ずっと呼んでたのに!」
……生まれていた。
考えこんでいるうちに、終わっていた。泣き声も聞いていなかった。産婆が来たことにも気づいていなかった。四度めにして、わしは初めて誕生の場面を丸ごと見逃した。
◇ ◇ ◇
奥の部屋に入ると、母親が小さな包みを抱いていた。
家族がそのまわりに集まっていた。カイ、双子、フィン、ネル、ノエル先生。いつのまにか戸口から入ってきた父親が、いちばん後ろで首を伸ばしていた。肩にも頭にも、雪が積もったままだった。四度めでも、父親だけは慣れないらしい。
わしは包みをのぞきこんだ。
小さかった。赤くて、しわくちゃで、こぶしを口のそばにくっつけて眠っていた。ネルが生まれたときと同じ寝方だった。
何も、考えなかった。
考えていた言葉は、全部、どこかへ行っていた。
「……ざぁま、みじょかー」
口から、出た。
部屋の中が、一瞬、止まった。
「「だから、どこの言葉!?」」
カイと双子の声が、そろった。
みじょか、なら、この家ではもう誰でも知っている。だが、ざぁま、は誰も知らない。前世の島で、ばあちゃんが孫を抱くたびにそう言っていた。
双子のときは、わしは一つだった。フィンのときは二つ、ネルのときは四つ。ティアは、わしが初めて自分の腕で抱ける妹だった。
母親が声を上げて笑った。
「新しいのが出たね」
ノエル先生が黙って帳面を開いた。それから、わしの耳もとで小さな声で聞いた。
「……ざぁま、とは」
「……うんと」
先生はうなずいて、みじょか、の上に書き足した。ざぁま。うんと。
産婆のおばあさんが湯の鍋をのぞきこんで、感心したように言った。
「この家は、湯の沸くのが早いねえ。言われる前から、ちゃんと沸いてる」
ミナとニナが鍋の両側で、そろって胸を張った。
父親が、母親の腕の中の包みを見下ろした。天井は見上げなかった。
「……ティア」
一語だった。
それから、部屋じゅうが、黙った。
全員が誰かを見ていた。カイは母親を見ていた。双子はカイを見ていた。フィンは双子を見て、ネルはフィンを見ていた。ノエル先生だけが、何が起きているのか分からずに、全員を見ていた。
誰かが、あれを言うはずだった。
ネルのときは、子どもたちが母親より先に言った。その前はずっと母親が言った。今度は、誰が言うのか。全員がそれを待って、全員が言わなかった。
母親が包みを抱いたまま、ぐるりとみんなを見回した。
「……今日は、誰も言わないのかい」
それで、全員の口がいっせいに開いた。
「いいじゃない!」
ノエル先生だけが一拍遅れて、小さな声で「……いいじゃない」と言った。何がいいのかは、たぶんまだ分かっていなかった。
◇ ◇ ◇
それから、ティアの取り合いが始まった。
「ミナが、だっこ!」
「ニナが、だっこ!」
「おれが先だ! 産婆を呼んできたのは、おれだ!」
「……ネル、も」
ネルまで母親の膝によじ登ってきた。さっき一番下を解かれたばかりの三つの子は、もう、おねえちゃんの顔をしていた。
母親は笑いながら、ティアを高く持ち上げて、全員の手から逃がした。
「順番だよ! 順番!」
それでも、順番は決まらなかった。ミナとニナは二人で一人ぶんだと言いはり、カイは産婆を呼んだ手柄を言いはり、ネルはおねえちゃんだと言いはった。フィンだけが少し離れたところで、黙って順番を待っていた。この家で順番を待てる子は、たぶんフィンしかいない。
このままでは、ティアが目を回す。
わしは戸口の柱から、リーゼの古い当番表を一枚外した。裏返すと、まだ何も描いていない。炭のかけらを持って、そこに字を書いた。
ティアの、だっこの、とうばん。
朝。昼。夕方。夜。それぞれの横に名前を書いていく。ミナとニナは、二人一組で朝。一人で抱くには、ティアはまだ重い。一人が抱いて、一人が頭を支える。カイは、昼。フィンは、ネルと一緒に夕方。
一歳のとき、わしは双子の夜泣きを前に、頭の中でだけ当番表を作った。書く手も読み上げる口もなかった。前世なら、マネが一晩で組んでくれた当番表だ。
六年かかって、ようやく、自分の手で書けた。
最後に、わしは自分の名前を夜の枠に書いた。それから、朝の枠にも書いた。昼の枠の、カイの名前の下にも、小さく書いた。
母親が板切れをのぞきこんだ。
それから、わしを見た。
「……アイン」
一語だった。父親が乗りうつったような、一語だった。
わしは昼の枠の、自分の名前だけを消した。朝と夜は、消さなかった。定時に帰ることしか考えていなかった男が、自分から残業を入れていた。母親はそれ以上は何も言わずに、くすりと笑った。
その夜、わしの当番が来た。
ティアを抱いて、ゆっくり揺らす。親父の仕事場の拍子で、トン、テン、カン、カン。トカン、カン。
ティアはすぐに寝た。カイの抱っこでも、双子の抱っこでもぐずっていたのに、わしの腕の中では、こぶしを口につけたまま、すうっと寝た。
それから、わしは夜中に何度も起きた。当番でもないのに起きて、かごの中をのぞきに行った。息をしているか。毛布がずれていないか。こぶしはちゃんと口のそばにあるか。
四度めにして、初めてだった。こんなに何度も起きたのは。
ずっと見ていられる何かがあればいいのに。眠っているあいだも、代わりに見ていてくれる何かが。
前世なら、そういうものを作るのは、わしの仕事だった。
ふところのスマホを出して、かごの横で眺めた。目は、ついている。写すこともできる。だが、眠っているティアの今を、わしの寝床から見る道はどこにもない。
……分からん。
わしは、かごのそばに座りこんでティアの寝顔を見ていた。朝の当番が来るまで、そのまま、見ていた。
眠っているあいだもティアを見ていてくれる何かは、十歳のわしに、先送りである。
――ビジネス用語――
※1 横展開:うまくいったやり方を、ほかの所でも使うこと。仕事ではほめられる。下の子を迎えるときは、なぜかしたくない。
※2 残業:決まった時間のあとまで働くこと。わしの残業は、夜と朝のだっこ。手当は出ない。




