第28話 サボリーマン、父の三語を仕様書にする
リーゼの夜は、本と、灯りの取り合いだった。
この夏、リーゼは毎晩、ノエル先生のろうそくを分けてもらって本を読んでいる。卓の上に一本のろうそく。右にノエル先生、左にリーゼ。二人とも何も言わずに、ページをめくる音だけが重なる。
ろうそくは高い。一本が燃えつきると、ノエル先生は本を閉じて部屋に戻っていく。
リーゼは、そこからが長かった。
かまどの残り火のそばに移って、本を火に近づける。目を細める。もっと近づける。もっと細める。灯りの石は寄り合いの夜にしか灯さないので、使えない。
ある晩、リーゼの前髪の先がちりっと鳴った。
「……あ」
リーゼは焦げた前髪をつまんで、しばらく見つめていた。それから、また本を火に近づけた。
本を読むためなら、前髪くらいは惜しくないらしい。
この夏、リーゼが読んでいたのは、ノエル先生が貸してくれた古い薄い本だった。表紙に「詠唱の手引き」と書いてある。今年、リーゼは十だ。秋の儀式は、魔の神さま、マギアさまの年である。
リーゼは手引きに書いてある短い詠唱を、片っぱしから覚えていた。夜中に寝床の中で、小さな声で唱えている。
「光よ、ともれ。……水よ、集まれ。……風よ、ふけ」
もちろん、まだ何も起きない。
それでも、リーゼは毎晩唱えていた。
秋になれば、町の学校に行ってしまう。この家でこの声を聞くのも、あと少しだ。
◇ ◇ ◇
秋の儀式の旅は、四度めだった。
四度めなので支度が早かった。母親が荷物をまとめ、父親が浮く台に積み、双子がフィンとネルを台に乗せる。すべてが、夜明け前に終わった。
早すぎて、門を出たところでカイがいないことに気づいた。
カイは秘密基地で寝ていた。木切れを組みながら寝たらしく、木切れを握ったままノエル先生に抱えられて台に乗せられた。
町の神殿の前では、寄り親様の孫娘が待っていた。
「エマ! 神殿の前で走るでない! わっはっは!」
後ろから寄り親様の大きな声が追いかけてきた。
エマ。
会うのは四度めだが、名前を聞いたのは、初めてだった。寄り親様はいつも「姫」としか呼ばないのだ。
わしの前に立ったエマは、もう「けっこんしにきた!」とは言わなかった。かわりに一枚の紙を差し出した。
「けっこんしきの、だんどり」
紙には子どもの字で、上から順に式の段取りが書いてあった。神殿に集まる。誓う。祝いの席。どれにも、時刻と、誰がどこに立つかが添えてある。いちばん下にひと枠だけ、中身の書いていない枠があった。枠の頭に小さな字でこう書いてあった。
よび:アインが、にげたとき。
予備の段取りである。……さすがレナーテ先生の姪である。リスクヘッジまで入っている。
段取りは血で受け継がれるらしい。わしは紙を受け取って、それをていねいにたたんで、エマに返した。
「……よびの、ほうで」
逃げるほうに、一票である。
エマは首をかしげた。それから満足そうにうなずいた。予備でも、入っていればいいらしい。
◇ ◇ ◇
今年の儀式には、うちから三人が並んだ。
十の列に、リーゼ。十一の列に、ロッテ。十三の列に、学校の服のエリク。今年は三人そろって、魔の神さまからだ。
杖を持った像の前の台に、黒い石の板が置いてある。三人は順番にその板に手を当てた。
エリクの板には、ひとすくいほどの光が降った。ロッテの板には、それより少し少なく。リーゼの板には、ひとつまみ。四つのときにエリクの儀式で数えたのと同じだった。
三人とも板に字が出た。神官が順に名前を読み上げたが、後ろのほうにいたわしに聞き取れたのは、リーゼのぶんだけだった。
「風術」
リーゼは自分の板の字を、しばらく黙って見ていた。
儀式のあと、三人は神殿の外で、それぞれの手のひらを見つめていた。
「……なんにも、変わんない!」
ロッテは手をぶんぶん振っていた。板にはちゃんと名前が出たのに、武の神さまのときのような、かちっとはまる感じがないらしい。
「……指の先が、少し、温かい」
エリクは自分の手を、じっと握ったり開いたりしていた。
リーゼは、空を見ていた。
「……空気が、きらきら、してる」
リーゼはそれだけ言って、また黙った。わしには、いつもの秋の空にしか見えなかった。
その夕方、宿の裏庭で父親が三人に魔法を教えることになった。
「光から、やるんだよ。最初は、みんな光からさ」
母親が言った。
父親は三人の前に立って、右の手のひらを上に向けた。
何も言わなかった。
手のひらの上に、陽だまりのような光がぽっと浮かんだ。エリクの手を治したときの、あの光だ。
「……こう」
父親が言った。
光が、少しだけ大きくなった。
「……ぐっと」
光が、手のひらの上で、ふわりと浮いて、ゆっくり消えた。
「……ふわっと」
それで、授業は終わりだった。
三人は顔を見合わせた。母親が腹を抱えて笑った。
「あの人に教わるのは、無理だよ。あたしも、嫁に来たときに一回教わったけど、三語で終わったからね」
三人はそれぞれに試しはじめた。
「水よ、集まれ」
エリクが学校で習ったという詠唱を唱えた。手のひらの上に水が一滴、ぽつんと落ちた。それきりだった。
「火よ!」
ロッテが叫んだ。目の前で、ぼん、と小さな火が弾けて、ロッテの前髪の先が焦げた。
「ロッテ!」
母親が駆け寄って、ロッテの頭をはたいて火を消した。ロッテは焦げた前髪をつまんで、なぜか誇らしそうだった。
「火、出た!」
リーゼは手引きの詠唱を、小さな声で唱えた。
「光よ、ともれ」
リーゼの指の先に、光がともった。
ともった、と思った瞬間、光がまたたいた。大きくなって、小さくなって、また大きくなって、ぱちんと弾けて消えた。
リーゼはもう一度唱えた。光はまたたいて、弾けた。もう一度。また弾けた。
リーゼは、唇をかんだ。
本で、全部覚えたのだ。夏じゅう、前髪を焦がしてまで覚えたのだ。それなのに、光が言うことを聞かない。
「おれも!」
カイが横から手を突き出した。
「光よ、ともれ!」
何も起きなかった。カイはまだ十になっていない。カイはしばらく自分の手のひらをにらんでから、すねて宿の柵に登りはじめた。
「来年は、おれの番だからな!」
柵のてっぺんでカイが叫んだ。来年は、技の神さま、テクネさまの年だ。三年前、宿で「それ、つよい?」と聞いた神さまである。
◇ ◇ ◇
わしはリーゼの指の先を見ていた。
光よ、ともれ。
短い言葉だ。だが、短すぎる。
前世で、わしは毎日プログラムを書いていた。コンピューターへの命令には、決まった形がある。何に、どこで、どれだけ。ちゃんと書かないと、動かないか、とんでもない動き方をする。
光よ、ともれ、には、何に、しか書いていない。
どこにともるのか。どれだけともるのか。どういう順でともるのか。何も書いていない。だから光は、どこにでも、どれだけでも、ともろうとして、またたく。
畑でモニカねえちゃんは、こう唱えていた。
光よ、ここに。
あれには場所があった。だから光は、まめの上だけにともった。
そして、父親の三語だ。
こう。ぐっと。ふわっと。
あれは説明が下手なのではない。手順を体が覚えている人の言葉、暗黙知なのだ。体が覚えているから、手順の見出しだけが口に出る。中身は、父親の手の中にある。
こう、は、どこに。手のひらを上に向けて、光の置き場所を決めること。
ぐっと、は、どれだけ。光を、ためること。
ふわっと、は、どの順で。ためてから、放すこと。
三語の手順書は、ちゃんと書いてあったのだ。見出しだけで。
わしはリーゼの袖を引いた。
リーゼがわしを見下ろした。目のふちが、少し赤かった。
「リーゼねえちゃん。どこに、ともすの?」
リーゼは、まばたきをした。
「……ゆびの、さき」
「どれくらい?」
リーゼは少し考えた。
「……まめ、くらい。本が、読めるくらい」
「どのじゅんで?」
リーゼは長いこと黙っていた。それから、父親の手のひらを見た。父親が、こう、ぐっと、ふわっと、とやった手のひらを。
「……あつめてから、ともす」
リーゼは指を一本立てた。
そして、ゆっくりと唱えた。
「光よ。指の先に。豆ほど。集めて、ともれ」
リーゼの指の先に、光がともった。
豆粒くらいの、小さな光だった。またたかなかった。弾けなかった。ろうそくの火のように、指の先で静かにともっていた。
リーゼは光を見つめた。
それから、ふっと、笑った。リーゼが笑うのを、わしは久しぶりに見た。
父親がリーゼの指の先を見た。
「……それだ」
父親の、いちばんのほめ言葉だった。
それを見ていたエリクがすぐにまねをした。
「水よ。手のひらに。ひとすくい。集めて、とどまれ」
手のひらの上に水の玉が浮いた。今度は落ちなかった。
ロッテも、まねをした。
「火よ。あの石に。ぜんぶ。いますぐ!」
裏庭のすみの石が、ぼん、と火に包まれた。ぜんぶ、が多すぎたらしい。石は真っ黒に焦げた。
「量を考えな!」
母親の声が飛んだ。ロッテはなぜか、さっきよりもっと誇らしそうだった。
その夜、宿の部屋で父親が母親にぼそりと言うのが聞こえた。
「……リュン」
「なんだい」
「……リーゼは、理屈だ」
父親が母親を名前で呼ぶのを、わしは初めて聞いた。
「本で魔法を覚える子なんだねえ」
母親がうれしそうに言った。
手柄はリーゼのものになった。そもそも、わしには魔法が使えない。使えない者が、使える者の横で要件定義だけをしていた。前世のわしの仕事と、だいたい同じである。
夜、宿の窓から町の広場が見えた。昼間は市が立っていたところだ。屋台は片づいて、柱だけが月の下に並んでいる。
わしはふところのスマホで、その広場を一枚写した。写すことは、できる。写したものは、持ち帰れる。だが、村の寝床から、五日向こうの市で今起きていることを見る道はない。
◇ ◇ ◇
リーゼはそのまま町に残って、学校に上がることになった。
宿で過ごす最後の夜、リーゼは部屋のすみで何かを描いていた。
灯りは、ろうそくではなかった。リーゼの指の先の、豆粒の光だった。左手の指に光をともして、右手で炭を動かしている。もう、かまどの残り火に本を近づけなくてもいい。
描きあがると、リーゼは黙ってその板切れをわしに差し出した。
宿の裏庭の絵だった。
指の先に光をともしているリーゼ。その後ろで背伸びをして、リーゼの耳もとに何か言っている、小さな子ども。
わしだった。
……見られていたのか。いや、リーゼは、いつだって全部見ている。
絵の中のわしの顔は、ものすごく疲れた顔をしていた。人生にいろいろあった顔だ。
徹夜明けの、窓際のおっさんの顔だった。
七年前、赤ん坊のわしを描いたときと、同じ顔だった。
七年たっても、リーゼの目には、わしはこう見えているらしい。
リーゼは指の先の光を、ふっと消した。暗がりの中で小さな声が聞こえた。
「……ありがと」
それきり、リーゼは寝床にもぐりこんだ。わしは暗がりの中で、おっさんの顔の絵をしばらく抱えていた。
リーゼの目に、わしがおっさんに見えるわけは、十歳のわしに、先送りである。
――ビジネス用語――
※1 リスクヘッジ:危ないことに前もって備えて、被害を小さくすること。エマのリスクヘッジは、花婿が逃げたときの予備の枠。
※2 要件定義:作る前に「何を、どこに、どれだけ」を決めること。今回の要件定義は、リーゼへの三つの質問。




