第27話 誤答率のきれいすぎる答案〈ノエル視点〉
この家に着いた日、わたしは宿屋に来たのだと思った。
荷馬車が止まると、戸口に家族がずらりと並んでいっせいに頭を下げたのだ。「いらっしゃいませ!」と。お父さままで、少しだけ頭を下げていた。
荷の山から降りると、小さな男の子が駆けてきた。右手に板切れを持って、左手でわたしの箱をつかんで、口では何かを聞こうとしていた。三つを一度にやろうとして、箱ごと転んだ。
わたしは箱より先に、その子を起こした。
箱の中身は本だった。故郷の町の本屋で、わたしはいちばんの常連だった。重いのは当たり前で、七つの子が持てる重さではない。
その夜、わたしは帳面の新しいページに「わからないこと」と書いた。わからないことは、書いておけば逃げない。
次の日の授業でわたしは三つ言った。言ったとおりに帳面にも書いた。
一、空はなぜ青いのか。
二、カイさんはあの木切れで何を作っているのか。
三、アインさんはなぜ、あんなに重い箱を持とうとしたのか。
◇ ◇ ◇
クローベル家の授業は、毎朝、窓が開くところから始まる。
カイさんがそこから出ていくからだ。
最初の日に「ぜんぶ!」と言って飛び出していってから、カイさんは毎朝、決まって窓から脱走する。わたしが「では、始めましょう」と言うと、もう窓枠に足がかかっている。一度も、引き止めたことはない。
カイさんは昼には戻ってくる。おなかがすくからだ。
三日めに、わたしは窓枠に木切れをいくつか置いておいた。はめ方を正しく選ぶと、一つの形に組み上がる木切れだ。わたしの父が、子どものころに作ってくれたものだった。
昼に戻ってきたカイさんは、窓枠の木切れを見つけて、そのまま窓の内側に座りこんだ。木切れをはめては外し、外してははめる。わたしはその横で、木切れの数を数える問題を出した。
カイさんは木切れを動かしながら、全部答えた。
「先生、これ、もう一個ある?」
「あります。明日の朝、置いておきます」
次の朝、カイさんは窓から出ていかなかった。窓枠に座って、木切れの続きを待っていた。
カイさんは手で考える人だ。手を動かしているあいだは頭も止まらない。字を書くための手が、たまたま退屈だっただけなのだと思う。
その夜、わたしは帳面の二つめに線を一本引いた。
この家は、にぎやかだ。
朝は「いらっしゃいませ!」で始まる。前の先生の置きみやげらしく、ミナさんとニナさんは、わたしが部屋から出てくるたびに戸口でお辞儀をする。もう十日になるのに、まだやめない。夕飯の卓では十人がいっせいにしゃべる。お母さまが大きな声で笑い、お父さまが三つの言葉で全部を片づけ、フィンさんがネルさんのお椀を守り、カイさんが木切れの話をする。
わたしは静かな家で育った。父と二人で、本と、ろうそくの音だけの家だった。
だから、最初の三日は少しだけ耳が疲れた。四日めには慣れて、七日めには、この音がないと落ち着かなくなった。
夜は、リーゼさんと一つの灯りを分けあって本を読む。リーゼさんは、ほとんどしゃべらない。わたしも、しゃべらない。ページをめくる音だけが、ふたつ重なる。秋の儀式がすんだら、リーゼさんは町の学校へ行く。
故郷の町には、三年たったら帰ると約束した人がいる。この家にいられるのは、三年だ。三年のあいだ、この音の中にいられるのは悪くないと思った。
◇ ◇ ◇
リーゼさんは、卓のはしで本を読んでいる。秋の儀式までのひと月だけ、授業に入ることになった。問いを出すと、本から目を上げずに答える。だいたい合っている。
最初の日、わたしが「わからないことを、三つ」と言ったときも、リーゼさんは本から顔を上げなかった。何も言わなかった。
次の朝、わたしの席に板切れが一枚置いてあった。炭で絵が三つ描いてある。字はない。
一つめは、大きな門。二つめは、光の降る板。三つめは本棚で、その横に大きく「?」。
わからないことを三つ、絵で言う子は初めてだった。
門と板は、どちらもリーゼさんがこの秋に行くところだ。わたしは板切れを持って、卓のはしへ行った。
「この二つは、行ってみないと、わかりません。先生にも」
リーゼさんは本から目を上げて、小さくうなずいた。
三つめだけは、わたしにも答えられた。町の本屋の場所を、わたしは紙に描いて渡した。
リーゼさんは紙を受け取ると、また本に目を戻した。そのページは、しばらくめくられなかった。
アインさんは、窓から出ていかない。
卓の、カイさんの隣の腰かけに座って、足をぶらぶらさせている。
アインさんは、問いを出すと少し遅れて答える。そして、いつも八割がた合っている。
よくできる子だ。七つにしては、とてもよくできる。
重い箱のわけは、何日かしてわかった気がした。
夕方、わたしが箱から本を出して棚に並べていると、アインさんが戸口からじっとこちらを見ていたのだ。本の背を見ているのか、わたしの手もとを見ているのか、しばらく動かなかった。
この子は、本が好きなのだろう。
だから、あんなに重い箱を持とうとしたのだ。
わたしは字の少ない、絵の多い一冊を選んでアインさんに差しだした。星と空の本だった。
「よかったら、どうぞ。急がなくていいです」
アインさんは両手で受け取って、耳まで赤くなった。それから、ほとんど聞こえない声で「ありがとうございます」と言って、走っていった。
よほど本が好きらしい。
その夜、わたしは帳面の三つめにも線を引いた。
ただ、わたしには初日の夜から、気になっていることがあった。
あの日、わたしの荷物を持とうとして転んだアインさんが、地面に落とした板切れだ。炭でこの家の一日の流れが書いてあった。
字は、子どもの字だった。ゆがんでいて、ところどころ大きさがそろっていない。
でも、並べ方が、子どもではなかった。
朝の水くみ。薪。卵。朝ごはん。授業。畑。昼ごはん。昼寝。夕方の水くみ。晩ごはん。寝かしつけ。そのひとつひとつの横に、誰がするかが書いてある。ロッテさん、カイさん、ミナさんとニナさん、それから、アインさん。時刻の順に、抜けもなく、重なりもなく。
わたしの知っている七つの子は、こういうふうには書かない。書けたとしても、まず自分の好きなことから書く。
わたしはその板切れを、何度も読んだ。読んでも、わからなかった。
家の人たちが「アインの変な本」と呼んでいる、黒い手帳がある。アインさんがいつも胸に抱えているものだ。本と聞いて、わたしは少し見せてもらいたくなった。
「アインさん。その本、少しだけ、見せていただけますか」
アインさんは両手で手帳を抱えこんだ。抱えこんで、首を横に振った。
いつも少し遅れて答える子が、そのときだけは、すぐに答えた。
わたしは手を引っこめた。本には、読まれたくない本もある。わたしにも、ある。
◇ ◇ ◇
秋の初めに、わたしは最初の試しをした。
板切れに二十の問いを書いた。数が十四、字が四、それから、銅貨と銀貨の問いが二つ。二人がどこまでわかっていて、どこでつまずくのかを知るための試しだ。わかっていないところがわかれば、そこから教えればいい。
リーゼさんは、試しのあいだも本を読んでいた。
カイさんの答案は三問が正解だった。そして、裏いっぱいに何かの機械の絵が描いてあった。歯車のようなものが、いくつも噛み合っている。たぶん、窓枠の木切れの続きの形だ。
わたしはその絵を、しばらく眺めていた。
それから、アインさんの答案を見た。
試しのあいだ、わたしは二人を見ていた。
カイさんは三問めで手が止まり、裏返して絵を描きはじめた。
アインさんは、はじめのうちすらすらと書いていた。七つの子にしては驚くほど迷いがない。それから、ときどき手を止めて天井を見上げた。見上げたあとで、指で何かをこすって、また書き直す。
答えを確かめているのだろう、と、そのときのわたしは思った。
二十問のうち、十六問が正解だった。まちがいは、四つ。
八割だ。いつもの、アインさんだった。
わたしは、まちがいに印をつけていった。五問め。十問め。十五問め。二十問め。
……手が、止まった。
五問に一つ。
きっちり、五問に一つずつ、まちがえている。
偶然かもしれない。わたしは、まちがいの中身を見た。
五問めは、二十七と十五を足す問いだった。答えは三十二と書いてあった。くり上がりを忘れた子が、いちばんよく書くまちがいだ。教える側なら誰でも知っている。
なのに、十二問めの四十八と三十七を足す問いは、合っていた。五問めより難しい、くり上がりの問いだ。
十問めは、銀貨一枚は銅貨何枚かを問うものだった。答えは、十枚。これも小さい子がいちばんよく書くまちがいだ。
なのに、十八問めの銀貨と銅貨を使った買い物の計算は、合っていた。銀貨一枚を銅貨百枚として、きちんと計算してあった。
わたしは答案を灯りに近づけた。
五問めの三十二の字の下に、うっすらと炭の跡が残っていた。一度書いて、指でこすって消した跡だ。
四十二、と読めた。
正しい答えだった。
この子は、正しい答えを書いて、それを消して、いちばんありそうなまちがいを書き直している。
正解を知っている人にしか、こういうまちがえ方はできない。どこでまちがえれば、いちばん子どもらしく見えるのかまで、わかっている人にしか。
誤答率が、きれいすぎる。
◇ ◇ ◇
次の日、わたしは二人に答案を返した。
「カイさん、三問正解です。裏の絵の続きを、あとで教えてください」
カイさんは顔を輝かせた。正解の数より絵のほうが大事らしい。
「アインさん、十六問正解です。よくできました」
アインさんは答案を受け取った。点を見て、それから小さく息を吐いた。
ほっとした顔だった。
わたしはこれまでに、たくさんの子どもの答案を返してきた。満点をとって跳びはねる子は見たことがある。まちがいを見て泣く子も見たことがある。
八割でほっとする子は、初めて見た。
まるで、ちょうどいいところに当てた、という顔だった。弓の的の真ん中ではなく、真ん中より少しだけ外を狙って、狙いどおりに当てた人の顔。
この子は、まちがえるのに頭を使っている。
それも、正しく答えるよりずっと多く。
この子は、何者だろう。
その日の昼、わたしはもう一つだけ試してみた。
畑から戻ってきたアインさんに、何気なく聞いたのだ。
「アインさん。銀貨一枚は、銅貨何枚でしたっけ」
アインさんは芋を口に運びかけたまま、少し止まった。
「……ひゃくまい」
正しい答えだった。
「答案では、十枚と書いていましたね」
アインさんの匙が宙で止まった。それから、ゆっくりと口の中の芋をかみはじめた。かんで、かんで、まだかんでいる。芋はもうとっくに、なくなっているはずだった。
「……まちがえ、ました」
ようやく、それだけ言った。
わたしはそれ以上は聞かなかった。アインさんは、わたしが立ち上がるまで、からっぽの口で芋をかみつづけていた。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは長いこと、灯りの前に座っていた。
お父さまとお母さまに、話すべきだろうか。
話せば、どうなるだろう。
お二人は喜ばれると思う。この子はとても賢い、と。それから、きっと期待をされる。もっと教えてくれと言われる。噂は寄り親様の町まで届くかもしれない。もっと上の人の目が、この子に向くかもしれない。
この子は、それを望んでいない。
望んでいないから、わざわざまちがえている。七つの子が、毎回、五問に一つ、正しい答えを消している。
なぜ隠すのかは、わからない。
わたしは帳面を開いて、四つめを書いた。
四、アインさんはなぜ、正しい答えを消すのか。
わからないことは、わからないままでいい、と、わたしは思った。少なくとも、この子が自分から話す気になるまでは。
わたしはアインさんの答案を、自分の本のあいだに挟んだ。いちばん好きな本の、いちばん好きなページのあいだに。
本を閉じると、挟んだ答案の角が少しだけページからはみ出した。わたしはそれを指で押しこんで、本を荷物のいちばん底にしまった。
誰にも、言わない。
そのかわり、この子が本当にわからないことを探してあげよう。答えを消さなくてもいい問いを。
空はなぜ青いのか、と聞いたときも、この子はたぶん答えを知っていた。
答えを知っている子にも、いっしょに調べる相手はいていい。
それから、もう一つ。
この子はときどき、わたしが話しかけると、目をそらして小さな声で何かつぶやく。
「……あかん」
聞いたことのない、なまりだった。どこの言葉だろう。何が「あかん」のだろう。
帳面に五つめを書いた。
五、「あかん」は、何が、あかんのか。
わたしは、灯りを消した。
わからないことが、また一つ、増えた。




