第26話 サボリーマン、床から卓へ昇進する
ハイディ先生がいなくなって、家から授業の声が消えた。
カイは自由を満喫していた。朝の手伝いが終わると、もう姿がない。昼すぎに見つけたときは屋根の上で寝ていた。どうやって上ったのかは誰にも分からない。
わしは、眠れなくなった。
床の席がないのだ。
一つのときから六年、わしの昼寝は卓の下の床だった。上では先生がしゃべり、兄や姉が答え、わしは毛布の上でその声を聞きながら寝る。先生の声がちょうどいい子守歌だった。
声がないと、眠れない。
前世でもそうだった。わしがいちばんよく眠れたのは、定例の会議の最中だった。誰かが前でしゃべっていて、自分には関係がない。あの安心感が、まぶたを重くする。家で一人のときより、ずっとよく眠れた。
授業のない昼の床は、ただの床だった。硬くて、静かで、少しも眠くならない。
ほかのきょうだいも授業がなくなって、なぜか先生ごっこを始めていた。
「では、問題です! この家の子どもは、なんにんですか!」
ミナがレナーテ先生のまねをして、板切れを指でつつく。
「いらっしゃいませ! お布団は、どちらに?」
ニナがハイディ先生のまねをして、毛布を抱えて走り回る。
そして生徒の役のフィンは、問題が出されるたびに窓から逃げた。カイのまねである。窓が高いので、毎回、窓枠にお腹を引っかけてじたばたしていた。ネルがそれを見て手を叩いて笑っていた。
先生が二人いて、生徒が一人で、その生徒は毎回逃げる。この家の授業の歴史が、ぜんぶ詰まっていた。
わしは新しい先生が早く来ることを、心の底から願った。
◇ ◇ ◇
新しい先生が来ると決まってから、家族は勝手に支度を始めた。
三度めなので、みんな慣れている。
母親は物置を片づけた部屋を掃除しはじめた。レナーテ先生が住み、ハイディ先生が住んだ部屋だ。父親は先生の部屋の戸のたてつけを直していた。ミナとニナは戸口に並んで、毎朝お辞儀の練習をしていた。
「「いらっしゃいませ!」」
ハイディ先生の置きみやげである。フィンもネルを連れて、二人の後ろでお辞儀をしていた。ネルはお辞儀をするたびに前に転んでいた。
そして、わしも、支度をしていた。
引き継ぎの資料である。新しい人が来たら、まず一日の流れを渡す。前世の会社で新人が来るたびにやっていたことだ。誰も読まなかったが。
わしは板切れに、この家の一日の流れを炭で書いた。朝の水くみから夜の寝かしつけまで。
書き終えたのは、先生が来る前の晩だった。顔を上げると、きょうだいが板切れをのぞきこんでいた。
「「いらっしゃいませの時間も書いて!」」
ミナとニナである。朝と昼と夜に一回ずつ、と二人は指を三本ずつ立てた。
「おれの脱走の時間も! 朝の、母ちゃんが鍋を見てるとき!」
カイが板切れの空いたところを指でとんとん叩いた。予定に入っている脱走は、もう脱走ではない。
フィンは前世の月曜の朝のような顔で、わしの袖を引いた。八の字の眉が、いつにもまして下がっている。
「……おひるね、二回が、いい」
ネルは黙って炭のかけらを拾い、板切れのまんなかに丸を描こうとした。わしは板切れを頭の上に持ち上げた。ネルの丸は、わしの膝に描かれた。
リーゼは少し離れたところで、黙ってそれを見ていた。
「ぜんぶ、だめ」
わしが言うと、五人がいっせいに口をとがらせた。いちばん小さいネルまで、とがらせていた。
新しい人に渡す資料に注文を足していたら、きりがない。あのころも、追加の注文は決まって渡す前の晩に来た。来るたびに資料は厚くなって、厚くなるほど誰も読まなくなった。
だから、注文は受けない。
板切れはきれいな一日の流れのまま、枕もとに置いた。膝の丸だけが、朝になっても消えなかった。
◇ ◇ ◇
「行商人が来たぞー!」
村の子どもの声がして、見覚えのある馬車がやってきた。
荷の山のてっぺんに、若い女の人が座っていた。
……デジャヴ……アゲイン?
六年前、レナーテ先生もここに座っていた。そして二年前、ハイディ先生は寄り親様の荷台から飛び降りてきた。わしの頭の中で、三つの到着が重なった。
馬車が止まった。
戸口に並んだ家族が、一斉に深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ!」
父親まで、少しだけ頭を下げていた。
荷の山のてっぺんで、女の人がゆっくりとまばたきをした。それから、少しだけ首をかしげた。
「……ここは、宿屋さんですか?」
違う。領主の家である。
女の人は荷の山から、ゆっくり降りてきた。行商人が手を貸すと、その手を借りて足もとを確かめながら降りた。レナーテ先生のように、ひょいとは飛び降りなかった。
背が高くて細い人だった。二十代の半ばくらいだろうか。髪をゆるく一つにまとめていて、まとめきれなかった髪が耳のあたりで揺れている。
今だ、と頭の中で何かが言った。
一人めの先生は、一日の流れで始まった。二人めの先生は、おもてなしで始まった。三人めには、まだ通っていない道がある。全部の道を見ないと、気がすまない。前世のゲームの癖である。
わしは三つの道を、ぜんぶいっぺんに選んだ。
右手に一日の流れの板切れを持ち、左手で先生の荷物の箱をつかみ、口を開いて、気の利いた質問を言いかけた。
「せんせい、あの、ぼくの家の、一日の――」
箱が、重かった。
わしは箱に引っぱられて、前につんのめった。板切れが飛んで、わしは箱ごと地面に転がった。
……マルチタスクは、七歳の体には向いていないらしい。
女の人は、しゃがみこんだ。
箱ではなく、わしのほうを起こした。わしの膝の土を払って、飛んでいった板切れを拾って、それをちらりと見て、わしに返した。
「ありがとうございます。一日の流れは、そのうち、自然にわかると思います」
それだけだった。
段取りも、おもてなしも、気の利いた質問も、何も求めてこなかった。
「ノエルと申します。カイさんと、アインさんの先生になります」
先生はそれから少し考えて、付け足した。
「町の本屋さんの、いちばんの常連でした。レナーテさんに、紹介していただきました」
その夜の夕飯で、ノエル先生は、ほとんどしゃべらなかった。
ハイディ先生が決めた席順のまま、先生は空いていた先生の席に座った。母親が話しかけると、少し考えてから短く答える。父親とは、言葉の少なさでいい勝負だった。
ただ、リーゼとだけは、なぜか話が通じていた。
リーゼが膝の上の旅の本を、ちらりと持ち上げた。ノエル先生がそれを見て、小さくうなずいた。リーゼがまた本を下ろした。それだけで、何かが済んだらしい。
静かな人が、この家に、二人になった。
夜中に水を飲みに起きたとき、わしは卓のそばの灯りがまだついているのに気づいた。
ノエル先生が一人で座っていた。手もとにあるのは、わしが転んだときに飛ばした、あの板切れだった。
先生は、それを、長いこと見ていた。
わしはそっと寝床に戻った。七つの子が字で一日の流れを書いたのは、まずかったかもしれない。……いや、エリクに字を教わった子なら、書けなくもない。たぶん。
◇ ◇ ◇
次の日から、授業が始まった。
わしの席は、もう卓の下ではなかった。カイの隣で、卓についた。
卓のはしでは、リーゼが本を開いていた。秋の儀式までは、リーゼも生徒である。
七歳になって、わしは初めて卓に座る生徒になった。
座ってみると、足が床に届かなかった。ちんちくりんは、どこに座ってもちんちくりんである。床から卓への昇進は、足が宙に浮くところから始まった。
ノエル先生は卓の向かいに座って、しばらく黙っていた。話す前に少しだけ考える人らしい。
「今日は、わからないことを、三つ、言ってください」
カイが即座に手を挙げた。
「ぜんぶ!」
そして、窓から飛び出していった。
初日だった。授業が始まって、ひと呼吸めだった。
ノエル先生は、追いかけなかった。窓の外を少しだけ眺めた。カイは裏の物置の秘密基地へ走っていって、何かの木切れを組み直しはじめていた。
「……あの子は、手で覚えるほうですね」
先生は、ぽつりと言った。
夕方、母親が秘密基地からカイを引きずって戻ってきた。
「初日から逃げたって?」
「だって、先生が、追いかけてこなかった!」
カイはなぜか不満そうだった。追いかけられないと、逃げたことにならないらしい。
だが、それは夕方の話だ。授業の卓で、先生は窓の外からわしのほうへ向き直った。
「アインさんは?」
困った。
わからないことが、ない。
床で六年、この家の授業は全部聞いてきた。
だが、それを言えば目立つ。目立てば、仕事が増える。
わからないことを、三つ。七歳らしい、わからないことを。
わしは苦しまぎれに、窓の外を指さした。
「……なんで、空は、青いの」
言ってから、しまったと思った。答えを知っている質問だった。前世で、日の光が空気にぶつかって散らばり、青い光ほどよく散らばるからだと、どこかで読んだ。
ノエル先生は窓の外の空を見上げた。
長いこと、見上げていた。
それから、わしのほうを向いて言った。
「……それは、先生にも、わかりません」
……え。
「わからないことは、いっしょに調べましょう。先生も、わからないことを、三つ、言いますね」
先生は指を折りはじめた。
「空が青いわけ。それから、カイさんが、あの木切れで何を作っているのか。それから……」
先生は三本めの指を折りかけて、わしの顔を見た。
「……アインさんが、なぜ、あんなに重い箱を持とうとしたのか」
わしは、何も言えなかった。
前世で、炎上したプロジェクトをいくつも見てきた。どれも始まりは同じだった。誰も「わかりません」と言わない。リーダーも課長も、わかったふりをして先へ進む。そして、わからないまま積み上げたものが、ある日まとめて崩れる。
わからない、と最初に言える人は、めったにいない。
この人は授業のいちばん最初に、それを言った。
……あかん。
五度めだった。七歳である。
卓の席は床より高い。先生の顔がよく見える。
そして、卓の席では眠れない。先生の声は子守歌ではなく、ちゃんと聞いておきたい声になってしまった。昇進すると、昼寝ができなくなる。前世の会社と、同じだった。
わからないことを三つ、と先生は言った。本当は、一つだけある。
先生にまだ言えない一つは、十歳のわしに、先送りである。
――ビジネス用語――
※1 定例:毎週何曜日など、決まって開く会議。話すことがなくても開く。わしの昼寝の時間だった。




