第24話 サボリーマンは、寿退社をまた見送る
ハイディ先生のいる家の朝は、毛布の行列から始まる。
「みなさん、お布団をお日さまへ!」
先生が手を叩くと、きょうだいが一斉に毛布を抱えて戸口へ向かう。
カイは毛布を首に結んで、マントにして走っていく。ミナとニナは一枚を二人で持って、端と端で引っぱりあいながら進む。フィンは毛布をかぶったまま歩きだして、毛布の下で迷子になる。三つになったネルは、自分の小さな毛布を地面に引きずって、いちばん後ろからついていく。学校の夏の休みで帰ってきているロッテは、三枚まとめて肩にかついでいった。同じく帰っていたエリクは、毛布をきっちり四つにたたんでから運んだ。
わしは毛布から出なかった。
出る理由がない。毛布の中は温かいし、まだ眠い。
「アインさん」
ハイディ先生が上からのぞきこんだ。それから、にっこり笑った。
「では、毛布ごと干しますね」
先生は、わしを毛布ごと抱え上げて、戸口の外の縁台にそっと寝かせた。朝の日が毛布の上から体じゅうに当たる。
……天国である。
わしは干されたまま二度寝した。毛布と一緒に日に当たって、起きる手間もいらない。この家に来てから、いちばんラクな朝の仕事だった。
食卓の席も、先生が来た日に決まった「お客さま」の順のままだ。わしは、壁際の隅。
ハイディ先生が来てから、この家は、宿屋になった。
◇ ◇ ◇
その日の昼、行商人が王都からの手紙を一通届けた。
ハイディ先生は手紙を読むと、黙って洗濯物をたたみはじめた。
たたみ終わった手ぬぐいを、もう一度たたんだ。それから、もう一度。三度たたんだ手ぬぐいは、ほとんど四角い板になっていた。
午後には、朝に干した毛布を取りこんで、もう一度干した。
夕方、畑から帰ってきた父親を、先生は戸口で迎えた。
「いらっしゃいませ!」
父親が戸口で止まった。
「……いや」
ここは、父親の家である。
母親が先生の顔をのぞきこんだ。
「あんた、今日はどうしたんだい。来た日みたいになってるよ」
先生は両手で前掛けをぎゅっと握って、それから深々と頭を下げた。
「……王都に、帰ります。宿を継ぐ方のところへ、お嫁に行くことになりました」
親どうしが決めた縁談だという。相手は王都の大きな宿の若だんなで、先生とは小さいころからの幼なじみらしい。寿退社である。
「おめでとう!」
母親がぱっと顔を明るくした。
ロッテが匙を落とした。双子が顔を見合わせ、カイが「先生の子分が、へる!」と叫んだ。先生は、カイの子分だったらしい。リーゼは、黙っていた。
その夜、リーゼは先生の最後の宿題をもらっていた。
「リーゼさん。この家の朝を、描いてくださいますか。王都の宿の帳場にかけて、お客さまに見ていただきたいんです」
リーゼはこくりとうなずいた。次の日、リーゼが描いてきたのは、毛布の行列だった。マントのカイ、引っぱりあう双子、毛布の下のフィン、引きずるネル、三枚かつぐロッテ。それから、縁台で干されている毛布の中の、わし。
先生は、その板切れを両手で胸に抱えた。
「……宿の、いちばんいい場所にかけます」
わしは芋を口に入れたまま、かむのを忘れていた。
失恋である。三件め。
ただ、レナーテ先生のときは泣いて、家族に勘違いされた。
今度は、泣かない。
大人の顔で見送る。前世では取引先の送別会を何十回もこなしてきたのだ。それくらいはできるはずだ。
◇ ◇ ◇
最後の数日、ハイディ先生は夜遅くまで帳面に何かを書いていた。
「お客さま帳です」
のぞきこんだわしに、先生はそう言った。
「宿では、何度も来てくださる常連のお客さまの好みを、帳面に書いておくんです。次の人が、同じようにおもてなしできるように」
帳面には家族一人ずつのページがあった。
ロッテさん。剣のお話から入ると、算術もお勉強も進みます。朝の稽古のあとは、お腹がすいています。
カイさん。光るものを見ると止まります。大事なものは、ゴールに置いておくと速く走ります。
ミナさんとニナさん。お二人で一つ。かごも毛布も、一つを二人で。
リーゼさん。何も言わずに、全部見ています。描いたものを見せてもらうと、よく分かります。
旦那さま。朝いちばんに出て、泥だらけで帰ります。戸口の席。お疲れのときほど、言葉が短くなります。
わしは帳面に見入っていた。
引き継ぎ書である。それも、前世で見たどの引き継ぎ書よりよくできている。前世の引き継ぎ書は、たいてい「詳細は前任者に確認」で終わっていた。前任者は、もういないのに。
アインさん、のページで、先生の手が止まっていた。
どこでも寝られる方です。壁際の隅の席。寝かしつけの係。
そこまで書いて、先生は帳面の余白に小さく何かを書き並べはじめた。
当番表。剣の算術のきっかけの積み木。綱引きの掛け声。冬の物置の、干し肉を詰めた箱。
先生は炭の先で、一つずつ指していった。
「……この家では、ふしぎなことが、よく起きるんです。誰かが困ると、次の日には、なぜか片づいている」
炭の先が、止まった。
先生は、ゆっくりと顔を上げた。
壁際の隅に、わしがいた。いつも、そこにいる。
先生は、わしの顔をじっと見た。
わしは椀を持ったまま動けなかった。今度ばかりは、口に入れる芋もない。
先生は長いこと黙っていた。それから、ぽんと手を打った。
「……分かりました。この家には、働き者の妖精さんがいますね」
……ん?
「宿にもいたんです。夜のうちに、誰かが割れたお皿を片づけてくれていたり、お客さまの靴がそろっていたり。宿では、働き者の妖精さんが住みつくと、その宿は繁盛すると言うんです」
先生は満足そうにうなずいて、余白に「妖精さん」と書き足した。
それから、少しだけ寂しそうに笑った。
「この家は、きっと大丈夫ですね」
先生は帳面を閉じた。わしの顔を見ながら先生がたどり着いた答えは、わしではなかった。
助かった。……助かったのだが、なぜか、少しだけ寂しかった。
◇ ◇ ◇
出発の前の日、王都から先生の許婚が迎えに来た。
すらりとした若い男だった。馬車から降りると、出迎えた先生の前できっちりと頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
先生も、きっちりと頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
二人は顔を上げて、目が合って、もう一度頭を下げた。
「お世話になります」
「こちらこそ、お世話になります」
「遠いところを、ようこそ」
「とんでもない、お迎えにあがっただけで」
頭が、上がらない。上がっては下がり、下がっては上がる。宿屋の跡継ぎと宿屋の娘が戸口でお辞儀を返しあうと、こういうことになるらしい。
「……いつまでやってんだい」
母親が二人の背中をまとめて押して、家の中へ入れた。
似合いの二人だった。それが、いちばんこたえた。
最後の朝のために、わしらには作戦があった。
先生の代わりに、きょうだいで家じゅうの毛布を干す。最後の朝くらい、おもてなしを返すのだ。言いだしたのはロッテということになっているが、ロッテの耳に「せんせいの、かわりに、ほす?」と吹きこんだのは、わしである。最後くらい先生にラクをさせたかった。
「夜明け前に起きる! 親分の命令!」
その朝、わしらは暗いうちに一斉に跳ね起きた。カイが寝ぼけてネルの毛布をかぶり、双子がフィンを毛布ごと運びだしかけて、フィンが目を覚まして泣いた。
戸口を開けた。
家じゅうの寝具が、もう柵という柵に干してあった。父親の浮く台の上にまで毛布が並んでいる。わしらが抱えている毛布のほかは、一枚残らず。
「おはようございます。最後のおもてなしです」
ハイディ先生が袖をまくったまま、にっこり笑っていた。いつ起きたのか、誰にも分からなかった。
宿屋の娘に、早起きで勝てるはずがなかった。わしらは抱えた毛布をすごすごと柵の空いているところに干した。
馬車に乗る前、いちばん泣いたのは、ロッテだった。
「先生ー!」
いちばん手を焼かせた生徒が、いちばん大きな声で泣いた。剣で切る、と言ってりんごを分けなかったロッテが、先生の前掛けに顔をうずめて離れなかった。
「ロッテさん。これは、剣の算術の残りです。まだ百問あります」
先生は薄い帳面を一冊、ロッテに渡した。ロッテは泣きながら、それを胸に抱えた。
先生はそれから一人ずつ、別れを言って回った。双子の頭をなで、フィンの靴をはかせ直し、ネルを抱き上げた。カイには「子分を、やめさせていただきます」と言って、カイをさらに泣かせた。夏の休みで帰っていたエリクとは、お客さま帳の話を少しして、二人で同じ角度に頭を下げあった。
最後に、わしの前でしゃがんだ。
「寝かしつけの係さん。二年間、お疲れさまでした」
……来た。
二年前、わしを落としたのと同じ台詞だった。
わしは顔を固めた。目に力を入れて、口を結んだ。泣かない。大人の顔で見送る。決めたのだ。
「……せんせいも、おつかれさま、でした」
声が、少しだけ震えた。だが、泣かなかった。
先生は、わしの頭をなでて、許婚の手を借りて、馬車に乗った。
馬車が、動きだした。先生は馬車の窓から身を乗り出して、宿屋の娘らしく、深々と頭を下げた。最後まで、頭を下げていた。
馬車は、森の道の向こうに見えなくなった。
わしは、泣かなかった。最後まで。
◇ ◇ ◇
家族が一人ずつ家に戻っていく中で、わしは戸口の外に立っていた。
隣に、いつのまにか、リーゼがいた。
リーゼは何も言わずに、一枚の板切れを差し出した。
炭で、子どもの顔が描いてあった。
眉が、ぎゅっと寄っている。目に、むやみに力が入っている。口を、への字に結んでいる。泣くのを、がまんしている顔だった。フィンの八の字の眉とニナの眉間のしわを、足して二倍にしたような顔だ。
わしだった。
さっき、先生の前で固めていた、わしの顔だった。
リーゼは、ぼそりと言った。
「……がまん、へた」
それで、だめになった。
わしはリーゼの袖に顔をうずめて泣いた。泣かないと決めていたぶん、前よりたくさん泣いた。リーゼは何も言わずに、わしの頭に手を置いていた。
次の朝、目を覚ますと、戸口に父親が立っていた。
手には大きな鍬を持っている。去年削ってくれた小さな鍬ではない。大人の鍬を少しだけ短く切ったものだ。
「……七つだ」
父親は、それだけ言って、鍬をわしに渡した。
重かった。
泣かずに見送るこつは、十歳のわしに、先送りである。
――ビジネス用語――
※1 寿退社:結婚を機に、会社を辞めること。ハイディ先生の嫁ぎ先は、また宿屋。




